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2009年4月の投稿

2009年4月30日 (木)

キツネノボタン

  降りさうな朝の狐の牡丹かな  括弧

春のほかの花々とImg_0632同じようにキツネノボタンは黄色い花をつける。最も昔からの私の散策路である自然観察公園の木道は当然ながら湿地の上を通っている。途中、季節を問わず清らかな湧水の流れがあり、早春には天然記念物のニホンアカガエルが紐というよりは塊状の卵をそこに産む。春もたけなわとなってくるとキツネノボタンが咲く。キンポウゲ科の名に恥じず、美しいがどこか毒々しいのがよい。緑色をした金平糖のような形の種をつけるので、これで遊んだ覚えもあるが、口に入れてはいけないという認識はあったようだ。本当のところこの部分が有毒か否かはいまだ知らないので、単なる濡れ衣かもしれない。結構たくさんの花をつけるにもかかわらず、地味な印象を与える花だ。「キツネノ」という名前jから、「ボタンの偽物」という蔑称から転じた 名であろう。葉が似ているというのだが・・・・。

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2009年4月29日 (水)

燕の巣

  ジェット機が雲の上行く燕の巣  括弧

燕が水辺を飛び交P5090030っている。そろそろ燕の子供が賑やかに騒ぐころだ。毎年決まったところへ来る燕にとっては、そこの安全が実証されている訳だから、外敵から人に守ってもらうつもりでもあるかのように、手の届きそうな低さに営巣する。道の駅で見かけるものがその好例である。この句の燕の巣は、行田市にある埼玉古墳群のうち将軍山古墳資料館の裏口の軒下に毎年できる燕の巣のことで、今年の具合を見に行った時の様子だ。まだ子供はいないようで、巣の下に糞もたまっていなかったから、今年は遅れるのだろうかと少し心配になった。重苦しく曇った日で、姿も見せぬままジェット機が雲の後ろを音を立てて飛んで行った。。「耕し」の季節だというのに、相変わらず田畑に人影が見えることはまれである。奇妙に空虚な感じのする「春陰」であった。

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2009年4月28日 (火)

  いつからとなく藤の香の中にゐる  括弧

藤が咲きだして大502_002分経つようだ。今年はまだ改めて見に行っていない。近くでは騎西町の玉敷神社が有名だ。ここの藤まつりは、興味深い 露店も出る賑やかな行事だ。藤棚の下は藤房が肩辺りまで垂れているから、中に入れば藤の世界に浸った感がある。何より匂いがすごい。花に見とれて近づくうちにいつの間にやら匂いの領域に入ってしまっていて、その呪縛のなかにいる。その間の不思議な一時を描写した。別の世界、別の次元、さらに言えば現世から別の世にわたり来たったように感じるのが、この老木の下の花房に囲まれ、おおわれた場所なのである。

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2009年4月27日 (月)

牡丹園

  千切れ雲流るる下に牡丹園  括弧

このところ5~6年は毎年東松山の野田にある牡丹園に行く。昨年は4Dsc_0034月27日、今年は24日だった。この時期は割と風の強い日が多いものだが、今年は特別な強風だった。両年とも一眼レフを持っていったのが、写真の出来は昨年の方がよかった。咲き具合も進んでいたし、風によるブレがなかったからだ。今年はちぎれ雲どころか、雲と名のつくものは何にも見えなかった。花は激しく揺れた。写真は昨年の千切れ雲である。

牡丹は夏の季語とされる。しかし最近では4月中に咲きだしてしまうのはわが猫の額にある一本とて同じことだ。この木は5年くらい前にこの牡丹園で購入したものである。毎年花の数を増やしては順調に咲いている。

今年は昨年より暖かいと思っていたが、牡丹に限れば、出かけた日に3日の差があるとはいえ、それを差し引いても昨年の方が開花が早く進行していたような気がする。ただ、同じ園に咲いているつつじは、今年の方が早い時期に見ているにもかかわらず、傷み具合が激しかったようで、こちらは今年の方が早い開花だったのではないかと想像 されるのである。

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2009年4月26日 (日)

お食事処

  代田水まへにお食事処かな  括弧

こういうレストランがあると「おっ!」と言う声をあげてしまうものであ14_007る。いつも歩いているところで、民家風(しもた屋風とも?)の家がお寿司屋さんをやっているらしいとは気づいていた。冬の間は野菜畑程度の使い方をされている周囲の畑の一部に、この季節になると水が引かれそういう畑はあっという間に田と化する。景色が一変するのである。田植えは早い所ではすでに始まっているから、植田になるのも間近 なことだ。さらに緑色が加われば、この店だけでなく、村全体の様相が一変してしまう。

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2009年4月25日 (土)

連翹ふたたび

  連翹の蕎麦食ふ外の陽の中に  括弧

もはや連翹の季節ではない。まだ咲き残っていたころ、行田市郊外の何度か行ったことのあP4110001 る国道沿いの蕎麦屋に入った。ほかの店用のものと一体となった駐車スペースを隔てて、草花の植えてある庭があった。申し分のない日当たりの中に連翹が咲いていた。日当たりが似合う花である。蕎麦屋の中はいつも薄暗い。これが「蕎麦屋」というものの持つ雰囲気とどこかあっているように感じるのである。格子戸の外に、今見てきた連翹が垣間見える。薄暗い中で、ずっとこの花の日差しを意識していた。頭の中で鮮やかさが際立った。

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2009年4月24日 (金)

マメトラ

  マメトラの来る道つつじ咲きにけり  括弧

子供のころ、「マメトラ」と言えば農業の機械化=近代化の象徴であImg_0616った。このような機械を購入することで、農家の生産経費は上がり、その金を稼ぐために兼業化するという循環が始まったわけである。世の中全体が、工業化に伴って、生活水準を爆発的に向上させてゆく実態に、農業従事者がついてゆくためにも、機械化、はリスクが伴うにもにも関わらず、必然の流れだったものであろう。農村のイメージは明らかに激変したのであり、農村風景もおそらくは戦前のそれとは大きく変わっているはずだ。耕運機などが国道をノロノロ走っているといううミスマッチは今でもよく見られるのだが、農村内の細い道路であれば、もちろんこのような風景は日常茶飯事である。川里の農村を歩いている時の出来事を書いたものだが 、写真はこの句と直接関係がない。

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2009年4月23日 (木)

初燕

  掘割のうすき流れや初つばめ  括弧

3月には燕を見ることがる。毎年燕の巣ができて、糞が落ちて014_sp0000いる場所というものがあるが、2・3日前にそういう場所の一つを確かめてみたところ、まだ営巣している気配は見られなかった。学校へ集団検診車がやってきて、生徒が屋外でクラスごとに並んでレントゲン撮影の順番を待つようになると、校舎の昇降口入り口あたりの 天井に子燕の声が聞こえていたりする。

燕は曇っていれば水面すれすれに飛ぶ。餌になる羽虫の類が、そんな日には低空飛行するからだそうだ。そのせいもあって、水を張った田に何羽もが滑空している場面が目に焼きついている。秋になって、涼しさよりも寒さを感じる頃になっても、曇っていればやはり低空飛行の燕が後ろから突然追い越して行ったりするので驚かされる。燕の流線形は独特のものである。電線に止まっていることもあるが、印象に残っているのはいつでもあの体つきを目いっぱい利用して空中を滑っている姿だ。好印象の鳥であることに多分異論はあるまい。

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2009年4月22日 (水)

草の光

  風立ちて春野の草のひかりけり  括弧

この単純さ(023素朴さと言い換えてもたいして変わり映えはしない)はどうだろうか。春の野の気持 ちの良さは何の変哲もないない農村であっても簡単に味わうことができる。そういうただの自然賛歌なのだから、そう思っていただければよいのである。春になって「草萌え」するもの「こまがえる」もの、色々あるが、ひとたび勢いがついたとなると伸び方は速い。ただ草の種類によってその時期は微妙にずれる・ナズナなどは早い方だ。あっという間に背が伸びて茎に直接花が密生する。イネ科のものは仲間内での遅速が目立つ。最近ではスズメノテッポウが耕されていない田を覆い尽くしている。1週間ほど前にはカモジグサが既に穂を出しているのを見つけた。これを見るともう夏という気分になる。これから丈が伸びだすものも多いのである。

わが猫の額では最初はマルバスミレ。まだ咲いている。 やImg_0120がてヒトリシズカが気まぐれにあちこちに芽を出したのだが、今ではほぼ咲き終わって、葉が伸びている。絶滅を恐れて鉢にあげておいたものも順調に咲いた。ニリンソウも細々と咲いた。いずれもすでにわが猫の額に30年は生きているから大したものだ。同じ頃職場の先輩から貰ったエビネもちゃんと咲いた。チゴユリも、毎年主戦場を変えてはよく咲いている。植物、特に草本は姿を変えて季節を生き延びる。わが命は一見彼らのそれよりは長いようだが、よく考えれば、彼らは必ずしも世代交代しているわけではないから、結局は人間は、その生命力において、植物に大敗し続けているのである。

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2009年4月21日 (火)

花屑ふたたび

  花屑の流るる嵐来るぞ来るぞ  括弧

桜の句を出せるのもぎりぎりという時期に来た。何とも自然界の移Img_0570_2ろいの速さといったものを感じさせる花である。もっともバラのような長期にわたり種類を変えて咲き続ける物に比べて、同じ科に属するとはいえウメやモモ、リンゴなど桜属の花の命 はどれも短い。桜ほど目立たないだけである。

14日に市内の桜公園へ寄った。午後からは嵐が予報されていたのだが、帰る頃には一陣の風が吹いて、道端の花屑が一斉に流れた。…というのである。急速に暗くなってきた。春雷でも来なければよいがと足が速まる。春は嵐の季節なのであった。(写真をクリックすれば、花びらが少しは鮮明に見えます)

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2009年4月20日 (月)

茄子の苗

  鶏鳴や道に積まれし茄子の苗  括弧

回数が少し減ったImg_0566ようには思うが、今でも旧川里町(現在では鴻巣市)詣では続いている。落 ち着いた農村的たたずまいがよいのである。茄子苗を入れた箱が積み上げられているという光景がそろそろ見られる頃だ。この句は昨年の今頃(4月15日)にできたらしいので、今年も既に植え付けは終わっているのかもしれない。ここでは犬の吠え声もよく聞こえるが、悠揚迫らぬ遠吠えで、街うちでのように欲求不満の飼い犬にうるさく吠えつかれて辟易することもない。広いスペースで生きているから、犬にも余裕があるのだろう。鶏の声が聞こえることはめったにないが、たまたまここは聞こえる場所だったのだと思う。いかにも農村的な声だ。昔はどこでも鳴いていたから、懐かしくもある。

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2009年4月19日 (日)

花屑

  路地裏に花屑日の斑とも見えて  括弧

先日の吹上の元荒川という、初めて出かけた桜の名所での作。川の中Img_0483は花びらの密集状態だったが、川原から石段を登ればそこは舗装道路という具合だから、その上にも花弁はいっぱいに張り付いている。もちろん車止めで妨げられて積もってもいるわけで、辺り一帯花まみれの街といった風情である。あれから間もなく私の周囲の桜は申し合わせたように終わりをつげ、どこでも葉桜となって、その葉もすでに新緑に近い。その後の元荒川は見ていないわけだが、あるとき一夜にして「花まみれ」状態は終わってしまったに違いない。桜は散り際が潔いから大和魂の象徴であるなどとは全く思わないが、やはり花 の季節は特別なのだと、つくづくと思い知らされる日々であった。

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2009年4月18日 (土)

電動石臼

  電動の石臼まはる春の昼  括弧

電動石臼というGyouda_016_sp0000ものがあると気付いたのは、行田市の郊外にある蕎麦屋に入った時だ。5年前に近くに1年間ほど勤めたことがあって、その間に数回昼飯を摂りに行った。その後も何回か寄っているが、先日数年ぶりに入ってみて、小型のそれがガラスケースの中で、倦まず弛まず回り続けている姿を目撃したのである。実際に粉をひいているわけでもなさそうで、単なるイグジビションに過ぎないようだった。そば粒を入れるためのステンレス製の筒のようなものが一緒に回っていて、滑らかながら単調な動きに変化を与えている。この店、建物の向きに因るのか、いつ行っても薄暗い。「春の闇・・・」とやりたいほどの雰囲気だった。その方がストーリー性は高まるだろうが、嘘っぽさが見えてしまうようにも感じられたので、素直に「春の昼」となった。

単なる模型ではないかという気もしたので、ネットで色々写真や商品説明を見てみた。蕎麦屋で見たものと同系と 思われる機種もちゃんとあって、「電動石臼」は立派な商品名であることが分かった。

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2009年4月17日 (金)

  尾根道に蝶現はれて去りにけり  括弧

蝶の動きは不思議だ。鳥のように、見ていればメカニズムがなPim0460_sp0000んとなく想像がつくというような飛び方ではない。方向性や速度変化がきわめて恣意的で、架空の飛翔体(!)も含めれば、UFOの動きに一番似ている。飛び方は思いつき的で、一瞬先の位置や速度や方向が全く予知できないと言った感がある。寄席で紙を切って蝶の飛ぶ様子を再現してくれる芸があるが、なかなか良くできているとはいえ、移動させられる範囲に限りがあるから、実物の蝶がみせる時折の猛烈なスピードと行動範囲の広さは再現しきれないように思える。夏も含めて、さまざまな高度の尾根道をよく歩いたものだ。ヒマラヤの乾燥した4000メートル級の場所でも、 どうかするとこのような蝶に出会うことがある。県内の1000メートルに満たない山でも、突如現れる蝶に驚かされることはよくある。気まぐれな蝶は何を探しているのか、みとれている人間にはお構いなく、蝶は蝶の本能に従ってたちまちに飛び去るのみなのである。

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2009年4月16日 (木)

花散る

  花散るや湖(うみ)海の向かうに上り坂  括弧

おなじみ八丁湖の景である。琵琶湖のようなものを本来「湖(水Img_0441海)」と呼んだものであろうから、丘陵地帯の小人造湖が「湖」でよいのかという疑問が湧く。確かに大きな湖では対岸が見える場所は限られるかもしれないので、この句に違和感を持つ人もおられるはずである。辞書には周囲の植物が中心まで入り込まないだけの深さがあればよいように書いてあるが、確かにそれだけではイメージとの融和が図り切れないことも事実であろう。気になってネットで「湖」をランダムに検索してみた。この言葉は非常に幅広く用いられている。「人造湖」の写真を集めたサイトもあって、中に「奥多摩湖」の写真があった。何度も登山で通った湖だ。ここはダムであるから立派な人造湖だ。八丁湖よりははるかに広いだろうが、山が周囲に迫っているから、この句の景としてもおかしくはない地点はいくらでもある。さらに銀山湖、黒部湖などを挙げれば、対岸が見える湖は、山岳・丘陵地帯ではごく普通だとも思えてくる。私の句に出てくる「湖」は八丁湖が最大の頻出度であるから、これはやはり「湖」と認めてもらいたいところである。

例によって、時期的、アングル的にぴったりという写真は撮っていなかった。まだ咲き始めころの写真である。第一、花が「散って」いるのは、当然近景でなければならないから、手前にアップで花が入っているくらいが望ましいところであった 。

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2009年4月15日 (水)

春帽子

  春帽の池に写りしのち行けり  括弧

「春服」、「春ショーImg_0160ル」、「春日傘」などはどの歳時記にも載っているのだが、「春帽子」は手元の歳時記にない。ただし小型で持ち運びに便利な角川の『新版季寄せ』には収録されている。「夏帽子」や「冬帽子」を載せていない歳時記はないだろうから、「春帽子」は冷たい仕打ちを受けていることになる。角川の季寄せには、

   春帽子母に向つて冠り来る  中村汀女

が載せてある。

3月の句で、場所は新宿御苑。日本庭園の池面にじっと見入っていると、春らしい装いの女性が対岸の芝に来て友人と声を掛け合っている姿が映っていた。かなりの雨がやんだ直後だった。声は聞こえない。一瞬ののちに女性は池の面から消えた…という話である。大したことではない。

帽子をファッションとして被ったことがない。子供のころは被れと言われていやいや被っていた。学生帽も含めて、蒸れるのが嫌だったのである。野球少年ではなかったから野球帽は普通かぶらなかったと思う。山歩きのまねごとをするときは義務として被った。本格的に登るようになると一応は登山帽を買った。絵にかいたような登山者のスタイルになるのが嫌だったが、必需品だという認識はあった。夏の北アルプスなどは麦わら帽で過ごすこともあった。これでも強い日差しの下では容赦なく蒸れて頭がかゆくなった。

最近は吟行のとき野球帽をかぶる。相変わらず嫌いではあるが、トシを考えて やむを得ず被るのである。夏物と冬ものを使い分ける。夏物は500円のメッシュで、中国製だ。軽井沢のアウトレットで購入したツバの下側が紅い、私のものとしてはファッション性の高い帽子を2年間ほど愛用していたが、3年前北京に忘れてきた。皮肉なことに500円の中国製メッシュは何回もなくなりかけてはその都度戻ってきた。何人もの方の手を煩わせているのである。冬ものは20年以上も前に、ヒマラヤ行のための訓練と称して連れて行かれた冬山で山スキーをするというので、保温性のある安いものを探して買ったものだが、よく見るとゴルフ用品らしい。もちろんゴルフはやったことがない。いまだに冬季の吟行にはこれを被ってゆくのだが、我ながら物持ちがいい。

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2009年4月14日 (火)

長閑(のどか)

  長閑さや病院にバス入りゆく  括弧

病院がImg_0461 「長閑」では、病気の方には叱られそうな気もするが、そういうことを言っているのではない。地球上には様々な不幸や悲しみが満ち溢れているのだが、『西部戦線異状なし』の小説の方だったか映画の方だったかはっきりしないが(おそらく映画の方である)、そのラストシーンで、戦闘中に主人公が思わずみとれててしまう蝶のように、ちょっとした自然界の営みが人間にはささやかな救いなのであって、外から見た病院に詩情を感じて悪いわけがない。・・・と開き直る。私の散歩コースの一つに郊外の大病院経由の道がある。いまどきこのような総合病院がきちんと「営業」してくれているだけでもありがたいことだが、自然観察公園と土地を分け合ってできた施設だけに、広くて余裕のあるたたずまいだ。花や紅葉を背景に、病院に至る道路は交通量も少なく、歩くのにも楽しい場所だ。駅からの直行バスが悠然とやって来る。何物にも妨げられず余裕を持って走って来るバスを見ていると、ここのバスは日本一幸福なバスなのではないかとさえ思うのである。

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2009年4月13日 (月)

安曇野

  安曇野は降りみ降らずみ青き踏む  括弧

3月に浅間温泉に泊まったことはすでに述べたと思う。1日目は天候がDsc_0050_sp0000今一つだったので、山を見ることはあきらめ、雨の小布施に寄った。その後、3度目となる懐かしの安曇野に至り、雨間を見ながらではあるが、石仏巡りを思い立った。穂高駅前の観光案内所で詳しい地図をもらい、穂高神社に寄ってから畑の中の道を、実際は車で走った。雨はほぼ上がっていたが、予報では夕刻まで残るかもしれないということだった。なるほど最後には濡れそうなほどの量が落ちてきたので、車に避難して宿に向かうことにした。あっという間に雨は上がり、宿からは常念岳がよく見えた。あくる日は中央高速方面に向かい、これまた懐かしい清里へと向かう途中で、南アルプスと八ヶ岳の山々が残雪を載せた雄姿を堪能したのであった。「降りみ降らずみ」の天候 は、「青き踏む」という季語の持つ明るさとは感じがどこかそぐわないかもしれないとは思う。

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2009年4月12日 (日)

連翹

  築山の連翹に日のなごりかな  括弧

最近は、植物シリーズの感があるが、桜に限らず多様な花の咲く時期でImg_0361ある。連翹も古くから親しまれた花だ。原産は中国であるが、世界中に咲いているそうだ。おもな品種だけで3~4ある。写真のものは、暗いのでピントが悪いのだが、シナレンギョウではないかと思う。初冬から咲き始めるロウバイに始まって、春を告げる黄色い花々は、マンサクからサンシュユ、そしてトサミズキ、ヒュウガミズキと来て、今やこの花の天下となった。オウバイも絶頂期を超えうとしている。やがてエニシダが咲けばもうすぐ夏だ。その時期その時期の気温と空気感が微妙に違うせいか、それぞれの花のたたずまいもいかにもそれらしい雰囲気を持っている。連翹が日ののこりを集めているというのは当たり前すぎる印象かもしれない。この花の、温かみを帯びた濃い山吹色と独特の質感を伴った厚めの花弁には、他にはない固有の魅力があると感じる。「日の名残り」は日系イギリス人作家であるIshiguro 某という人のThe Remains of the Sun の訳、『日の名残り』からの連想である。現役のころには英語力保持のためにランダムに英語で書かれた現代作家を読んでいたものだが、そのうちの一冊。映画にもなったが、大都市でのロードショーだけだったので、見ることは果たせなかった。日系人ではあるがすでに脳内が西欧化しきった人が西欧人を描いた小説である。別に想像で日本のことを書いた小説もあるが、大分認識がずれているように思えた。「日 の名残り」は傑作である。

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2009年4月11日 (土)

花屑

  花屑の磴の上より積みはじむ  括弧

東京よりは遅れて咲き始めた桜だが、わが身辺でもいよいよ桜吹雪の季節に突入したようImg_0469 だ。昨日も絶好のお花見日よりだった。実は猛烈に多忙であることは昨日も書いた(・・・かな?)。忙しいからと言って、やらなければならないことが、放置している間に減るわけでもない。暖冬だというのにつけっぱなしだったスタッドレスを、何とか時間を見つけて付け替えに行った。そのタイヤ屋さんで得た情報に誘惑されて、行ってみる気になった「吹上の元荒川」という、県の景観百選にも選ばれている桜の名所には真底驚いた。それほど太くはないがよく整備された川の両岸に、互いに触れ合わんばかりに枝を伸ばした桜が、延々数キロ(?)にわたって咲き乱れているのだった。Img_0464 両岸のさほど広くもない川岸が花見の場である。猛烈な桜吹雪であった。花見のための遠出は、5年前の吉野山くらいしか覚えがないから、簡単に感動してしまうのかもしれないが、普段ならたいして記憶にも残らないであろうただの小流れに過ぎない元荒川の、花の景の見事さには脱帽した。花屑は切りもなく落ちるのだが、枝についた花の量は寸分も減ることはないように錯覚する。無尽蔵の美ともいうべきものが惜しげもなく降り注ぐ。サブちゃんの舞台の紙吹雪も、こうしてみると極端な誇張ではないと思える。俳句はもうだいぶ前に隅田川沿いの墨東で作られたものだ。写真は昨日の元荒川。

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2009年4月10日 (金)

土匂う

  土匂ふ日ざしなりけり百千鳥  括弧

土の匂いについては前にも書いた覚えがある。早春の温室に入Img_0347った時に、湿気の濃い空気にはこの匂いがべったりくっついている感じがする。この匂いについては冬の沖縄の各所で感じ取った経験にも触れたことがある。不思議なことに春旱(ひでり)の最中の外気には、この、肥料の効き具合を示唆するような空気の感覚を伝える匂いは漂わない。この匂いが発散されている場所では、湿気に守られた草の葉が薄緑色に、かつとても柔らそうなに大きな葉を伸ばしているという印象を受ける。変な話だが、食欲をそそるのである。どうかすると、無味無臭、乾燥状態の無機的事物にある種の美を感じることもあるのだが、時にはこのような「濡れた」空気というものに対しても、肌が勝手に求めるのでもあるような渇望感が、身内に 湧出してくるようでもある。

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2009年4月 9日 (木)

菜の花畑

  菜の花の畑にシャベルとポリバケツ  括弧

菜の花の時期は4img_0116長い。土手の芥子も菜の花のうちというなら、2月には咲きだしている。早春の畑でも、何の菜かは分からないけれど、所々に菜の花畑が見られる。その時期に作った句である。菜の花祭りまで催されるようになった現今では、菜の花は菜種を採るためというよりは観賞するために栽培していうるという意味合いの方が強いのではないだろうか。

  菜の花や月は東に日は西に   蕪村

といえば日本人のだれもが知っている。

  菜の花畑に入日薄れ・・・・♪

もそうである。独特の郷愁を感じさせるところ、もしかすると 桜よりも日本人に親しい花なのではないだろうか。

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2009年4月 8日 (水)

花冷え

  花冷えの夜となりゆく気配かな  括弧

句会は夜がほとんど1riko_022だから、近ごろは着てゆくものに困る。昼間は半袖でもいいくらいの気温になるかと思えば、日が沈むころからぐっと冷える感じもあって、出かける時、今夜はどこまで下がるのか確信が持てないのである。気圧配置のちょっとした差がセーター一枚に匹敵したりする。4日の夜、墨東を歩いたときがそうだった。時々雨までぱらついたので、余計に不安を感じたのでもある。夜桜といっても、俳句の人たちと交わるようになってからのことで、それ以前には、この長い生涯の中で数えるほどしか経験がない。筵に座り込んで宴会に及んだなどということはほぼ皆無であろう。昼間でもそういうことをしたという記憶が浮かんでこない。たいがいは仲間とぶらぶら歩くという程度の花見で、茶店でビールでも飲めば上等といったところであった。今ではアルコールはあまり飲まないが、若いころはまあ酒飲みの方だった。そんな私でも、酒を飲まなければ花見にならないという先入観は持っていなかったので、夜桜も見るなら素面の方が・・・とい う口だったのである。

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2009年4月 7日 (火)

花なづな

  菜園で道は終はれり花なづな  括弧

秋ないしは冬のうちに機械で耕されて、ごろ石のような田土に一面Img_0129覆われてる田が多い。畑でも野菜を作るのでなければ、やはり掘り返して平らに均しておく場合があるようだ。手入れされぬまま放置されたところと違って、耕された直後には草がなくなるわけで、こういう場所には冬の間に新たな「冬萌え」が生じる。寒さが募ると消えてしまうものもあるが、何とか持ちこたえて、まだ寒い早春に花を目一杯勢いよく付けてしまうものが何種類かあるようだ。そのうちの第一人者だと思われるのがナズナである。まだ小さな姿のままで細々と花をつけていたものが、あっという間に見慣れたサイズのナズナ大群生地をかたちづくる。他の草が生える前だから、田畑を独占する勢いである。逆にいえば、ナズナを除けば周囲はまだ冬の延長状態なのであり。全体としての景色は荒涼としている。ナズナの強さは耕された場所に限られるものではない。周囲に邪魔な存在がない荒れ地はたちまちナズナの大群に占領されてしまうのである。畑のあちこちに残された冬野菜も霜のダメージを受けて、みずみずしさを失い、大根も白菜も葱も、畑そののものを天然の保管庫として、生きるためにそこに収まっているだけのようなもので、お世辞にも元気だとは言えない。このような季節にむき出しの野を歩くのも一つの快感ではあるが、それも、緑萌え立つ「春たける」ころのものとはまた大きく違う情趣というべきであろう。

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2009年4月 6日 (月)

豆の花

  浮雲は家鴨のかたち豆の花  括弧

単に「30845_012_2豆の花」と言った時には、元来蚕豆(そらまめ)の花を指すとされる。この場合もそうで、畑を見れば分かると思うが、すでに1ヶ月も前から咲いている。よく見るとなかなか派手な色をしているのだが、周囲の他の色彩との対比があざやかさに欠けるのか、豆の花は大きな葉の陰に埋没してしまいがちである。長い間気を持たせたのちに、このと6img_0346ころ急に気温が上がった。開花から足踏み状態だった桜が一気に満開となった。御存じ桜祭りと並んで、わが町では「菜の花祭り」なるものも 開催中だ。カラシナ摘みというのを楽しみに出かけてみた。菜の花というのもなかなかきれいである。よく見ればこれらカラフルな眺めの中にも、豆の畑がおとなしく点在している。よく見れば 実はなかなかきれいなのである。

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2009年4月 5日 (日)

山茱萸(さんしゅゆ)

  山茱萸を見る度それを言ひにけり  括弧

春を告知するというよりも春を予告しているといった方がいいような花30845_012_3には、なぜか黄色いものが多い。まだ冬のうちからロウバイ(蝋梅)が咲くし、立春の頃にはマンサク(満作)が開花する。山茱萸も相当に早いが、開花は3月である。まだ花が残っているようだ。ミズキ科だと言われて図鑑を見ると、なるほど葉や実の感じがハナミズキのものとよく似ている。江戸時代に朝鮮半島から移入されたものだから、我が国では野生というより栽培植物だった。マンサクなどとはここが違う。今でも公園などに植えこまれている木がよく目につく。あまりたくさんを寄せて植えたりはしていないようだが、並木として使っているところもあるとは聞く。「庭のサンシュウの~♪」のサンシュウはこの木が移入される前からあった歌だという。一説によれば、この歌の「サンシュウ」はサンシュユのことではなくサンショ(山椒)のことなのである。

季節感が嬉しくて、山茱萸を目にとめる度、知ったかぶりも手伝って、必ず「あ、サンシュユ!」と声を上げるのが通例である。何度も同じ「感嘆詞」を繰り返したところで、たい した意味はないのだが、何といっても春だぞと知らされているようで、気持ちが華やぐのである。

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2009年4月 4日 (土)

八重椿

  八重椿富山の薬売り来たる  括弧

現代の「富山の置き薬屋」は軽乗用車に乗ってやってくる。薬の山の中に身を縮めImg_0369るようにして、のろのろとやってくる。置いてゆく箱にはちゃんと「越中富山」と焼き印が押してある。風邪薬から湿布薬までと、何からなにまで入っているから、このコンパクトな木箱は今でもかつての有効性を失ってはいない。中身を見ると薬そのものはこぎれいな箱 詰めになっていて、薬局の店頭で買う既成の薬と変るものではない。産地も全国各地におよぶ。日本海側の農漁村に住む人々の、積雪季を利用したサイドジョッブによるものとは限らない。産業構造が変わってしまったのである。我が家で薬屋との取引を続けているのは92歳になる母親である。薬屋はやってくると、私の前を通れば、愛想のよい笑みを浮かべてあいさつはするが、すぐさま母親の方に向かう。昔のように紙風船はくれない。私は定年過ぎの老人なのだから当たり前だ。

椿であるが、このあたりで見られるものでは、野生種のヤブツバキが一番である。八重はおおむね園芸種だろう。我が家にもある「乙女椿」というのがポピュラーだ。最近では毎年この花の咲いているころ、越中富山の薬売りは、軽乗用車に乗ってやって来る。軽乗用車を駆使して路地深く入り込み、今でも置き薬を愛好している家庭を一軒一軒訪問してゆくのである。

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2009年4月 3日 (金)

諸葛菜

  丈を得て藪となりたる諸葛菜  括弧

諸葛菜、図鑑上は_0006オオアラセイトウ。アブラナ科であり「花大根」と呼ぶこともある。花の形は大根にそっくりである。江戸時代に中国から伝わったというから、俳句でほぼ必ず「諸葛菜」と漢語で呼ぶのは正当なことなのである。実に繁殖力豊かで、条件さえよければ横にも縦にも盛んに広がる。野生化しているという方が正しいであろう。丈も相当に伸びるものがある。俳句を始めたころ「諸葛菜」と聞いてもどんな花か分からず、実際の花を見て「オオアラセイトウ」と呼んで、周囲から奇異の目で見られたことを思い出す。我が家の一角に住みついていて、邪魔だから毎年虐待の限りを尽くしているのに、何十年も春になると衰えることなく大きく育ち花をたくさんつける。今では領分も定まった感があり、人間との 共存共栄の関係を確立したようである。

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2009年4月 2日 (木)

蛇苺の花

  蛇苺咲けるあたりに取水口  括弧

蛇苺の花が咲きだした。犬ふぐりについても書いたことだが、104326咲き始めの可憐さがやはりよい。たった一輪だけ花を身につけたけ姿はまだひ弱だ。咲き揃ったところもなかか見事だが、安定感は必ずしも美しさと直結しないのである。茂りすぎたと思った途端に単なる雑草に見えてしまったりする。畦の上だろうが森の中の 日だまりの中だろうが、土の上に弱弱しく茎をのばし、わずかな数の薄い葉を開く。このような段階にある蛇苺の花を摘もうなどとはだれも思わないであろう。。

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2009年4月 1日 (水)

芝あをむ

  芝あをみかけてゐるよと歩きけり  括弧

3月の10日ごろに新宿御苑を大急ぎで歩いた時に浮かんだ句でImg_0310ある。御苑に限らず、最近までは暖冬傾向は明らかだったから、草萌えはずいぶん早くから明らかだった。畑の中や道端や、わが猫の額や、あらゆるところにハコベやオランダミミナグサなど、ナデシコ科の草が競って花をつけた。ホトケノザのように冬から咲きどおしだったものはますます勢力を広げた・・・といった塩梅だった。だが、芝に限らず、イネ科の植物全般は芽出しが遅いようだ。このころになって「そういえば幾分青い所が見え出したな」という程度だった。芝が青々として目に優しくなり、座っても大丈夫という感じになったころ、春は爛漫、もはやむしろ 晩春に近いことになる。

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