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2009年5月の投稿

2009年5月31日 (日)

サングラス

  サングラス越しの世の中草ひかる  括弧

何という陳腐さ。日記の一部と御理解いただき、我慢して、ちらりと67p6230019お目通しをお願いします。「世の中」と言っているのが陳腐さの原因であろうが、世の中をいつもと違ったアングルで見ているという発想とは違う。そう取られてしまうところが力不足の所以だが、作者は野山を歩くしか能のない人だ。純粋な紫外線除けであるに過ぎない。近ごろ「これがいわゆるカスミ目だろうか」と思うことが多く、白内障になるのではないかという恐怖心がどこかにある。5年ほど前にあるカード会社のポイントで貰ったサングラスが車の中に置きっぱなしになっていたのを見つけ出し、ことに紫外線に満ちているという感じのする5月下旬のある日、試しに使ってみたものである。誰にも遭わないようにと願いつつ、行き帰りの車の運転中にも使った。気のせいか偶然出会ってしまっただれもが私を怪しんでいるように思えたのは、意識過剰というヤツのなせる技だろう。

若いころからサングラスは鬼門だった。当時は顔の造作そのものが今より良かったとかイケ面だったとかいういうことは一切なかったが、何といっても若さ特有の弱弱しさが漂ってはいたようで、そんな私が思いきってサングラスを掛けると、周囲の人々が一様に激しく反応した。目にあらわれる気の弱さが見えなくなると、本来の顔の形の持つ荒々しさだけが強調されるのであろう、「怖い」ということであった。野坂昭如が、常時サングラスをしているのは、そういう目にあらわれる気の弱さを隠すためだと言っていたように記憶するが、私の場合、もともとのかたちが形なので効果が出すぎてしまうようなのであった。こんな気持ちで掛け るくらいなら、いっそ成り行きに任せて、白内障の手術でもなんでも受けようじゃないかとも思う今日この頃なのである。

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2009年5月30日 (土)

蚋(ぶと)

  しづかさのひとつに蚋の羽の音  括弧

嘘ではないが、「虻」とImg_1134_sp0000いう春の季語を使った方が無難であったという反省がある。いずれにしても静かな場所で何らかの羽音を聞いたのは事実なのであった。蚋にも何種類かあるとは思うが、個人的に悩まされたことは2度ほどあって、一度は若いころ職場の方々と名栗川でバーベキューをした時のことだった。思いがけぬほどの数の蚋にむき出しの太ももを何十か所か刺されて、腫れた上に新たな腫れが重なるというような重症を負った。全治するのに1ヶ月間くらいはかかったような覚えがある。もう一度は飯豊山縦走中のとある水辺のキャンプ地で、夕方一行の頭部めがけて無数の蚋が押し寄せてきたことがあった。仕方なく早々とテントに避難して、不貞寝する以外に手がなかった。このときは何人かが顔の数ヵ所を食われた程度で終わったが、これはテントという避難場所があったおかげだろう。こういう時に襲ってくる蚋の羽音がしただろうかと考えてみるのだが、気がついたら顔の上を飛び回っていたという印象の方が強い。音はかすかなものであったろう。それに蚋たちは集団でやって来るらしいところが、 この句の雰囲気には合わないかもしれない。あえて春の句として

  しづかさのひとつに虻の羽の音  括弧

と訂正しておきたい。

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2009年5月29日 (金)

薔薇の門

  薔薇の門構へて小さき美容室  括弧

今年の薔薇の盛りは終わったのだろうか。例年欠かさず駆けつけるDsc_0030バラ祭りにはついに行かずじまいになりそうだ。花を見るという意味では微妙な時期だったが、昨日まで2日間みなかみ方面に遊んだ。もちろんここは薔薇とは無縁の地であった。この句は1週間ほども前、車中から目にとまった隣の町の美容室の光景である。1点豪華主義といっては失礼であろうが、街中にあるこぎれいな美容室だから、当然広大な庭園を持つ訳ではない。この薔薇の門の整備に建物外の装飾として一番のエネルギーを注いでおられるようで、見事というよりほかにない。一目で好感をもった。このような設計に現れているはっきりとした主張が、美容術上の手腕にも生きていることであろうと、美容室・美容院の類には無縁の私は、 想像するだけなのであった。成り行きからご理解いただけると思うが、写真は「薔薇の門」のものではない。

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2009年5月28日 (木)

青嵐

  池の面にひかり湧きたつあを嵐  括弧

Img_1059

「青嵐」は今頃(青葉のころ)に吹くやや強い風のことで、私は、晴れた日に吹く風のことと解している。襲った木の青葉を裏返して吹きわたる。きれいな言葉である。「せいらん」と読むと、あの石原慎太郎さんが若いころやっていた「青嵐会」を思い出してしまう。かたい語感なので「あおあらし」が好きだ。南風が明るい池の面に吹いている。波立つ所はすべて光っている。爽快である。

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2009年5月27日 (水)

豆腐屋

  手づくりの豆腐売る店若葉風  括弧

これもいささか古い。わが散歩コースの一つにこの店はある。Img_1083郊外であるが、大型店が次々とオープンするような道路端ではない。まさに田中、畑中の集落に忽然と現れた豆腐屋である。手づくりだから少々高いが、湯葉なども売っていて楽しい。何度か寄って豆腐をお土産にした。うまかったが、その後あまり寄らないのは、この店がこのコースを歩くときに車を止めている某公園から1キロくらい離れているからだ。野菜や果物であればよいのだが、豆腐なのだから、駐車場までの帰途、写真を撮ったりメモをしたりする時に 地べたに置かなければならないと考えると、ついつい億劫になるのだ。豆腐は壊れやすいという観念があるし、実際にそうであろう。子供のころは親に言いつけられて、豆腐屋まで鍋を抱えたまま自転車を走らせたものだが、そういえばそのころの豆腐は、すべて売る店の手づくりであった筈である。

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2009年5月26日 (火)

山藤

  山藤に次ぐ山藤の野を列車  括弧

旅行の回数が減ったので、少し古い旅行句を使わねばならない。会津001行である。その後行った信州でも状況は同じだった。山藤というもの、わが里では「山(というより林)」そのものが少ないから、どちらかといえば珍しい存在だ。会津へはマイクロバスで行ったから、もっぱら高速道路わきの山林を見ていたわけだが、帰りは都合で会津若松から、皆と分かれて列車で帰った。その時の列車の車窓からも、山に畑地の小木立に山藤が咲きに咲いているのが見えた。磐梯山を右に左にしながらのなかなか良い旅であったと思う。それにしてもこれほど山藤が盛んな時期に、それが咲く場所を2度も旅した年はかつてなかったかもしれない。それほどに山中は山藤だらけに見えたのであった 。

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2009年5月25日 (月)

竹落葉

  小社の屋根反りかへる竹落葉  括弧

菖蒲町に神明Img_1054神社がある。古い神社で、格式の高いものらしい、「社叢」と呼ばれる550メートにも及ぶ長さをもった参道山林に敷かれた不揃いな敷石に歴史を感じる。参道を含めて本殿のある突き当たりの広場まで、よく見れば石仏や記念碑等の歴史上の痕跡が多数草木に埋もれているのだが、正直さほど手入れがよいとは言えない。ただそれが逆に参道に自然の趣をあたえていて、味わいを深くさせているともいえるかもしれない。参道の両脇は畑や水田であり。畑まで出てみると、山帽子の林があり、今は花をつけている。

舞殿は古びていて、床に埃が積もっているが、ここで毎年1月15日には、「鎮火祭」と呼ばれる作物の出来を占うための神事が行われるそうだ。本殿は大きく立派、貫録は十分である。社殿向って右側は竹やぶになっていて、そこに 問題の小社がある。

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2009年5月24日 (日)

新樹

  湯の宿は新樹の覆ふ山の底  括弧

またも芦の枚温泉の様子である。地形的には、行きつけの”Img_0864みなかみ”の宿によく似ている場所にあるということは既に書いた。ところで「新樹」という季語は私には使いにくいもので、おそらく過去の1万句は優に超える作品の中でも、初めての登場になると思う。宿のすぐ下は深い谷、対岸はそのまま直角(に思えるほどの傾斜なのだ)に立ちあがる新緑の山腹。こういう環境を露天風呂で味わっていると、ぞくぞくするほどの快感が得られるのであった。「若葉」と呼べるほど木の近くにはいない。かといって「新緑の樹林」と突き放して見ることもできない。夕陽を前面に受けて、この上なく明るい山腹には一本ごとが識別できる程の距離が相互に保たれているのだったから。急斜面すぎて、真っ黒なジャングル状の森にはなりにくいのか、ここは疎林なのであった。きれいすぎるので使いにくかった季語「新樹」にぴったりの光景だと、その情景を全身で受けているうちに、突然思いついたのであった。

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2009年5月23日 (土)

パワーシャベル

  水色のパワーシャベルや薄暑はや  括弧

まだ暑ければ「薄Img_1062暑」で済ませられる季節だ。もちろんこの言葉がまず浮かぶのは最初に「暑いな」と感じた日だ。立夏直後だったように覚えている。梅雨入り前はこのままで通用しそうだが、インパクトは弱まっていきそうだ。実際ここ2・3日は暑かったし、今日あたりも相当温度が上がりそうな気配がする。「薄暑も佳境?」といった時期になる。

「パワーシャベル」は知人たちが「ユンボ」と呼んでいるシャベルつきの重機のことで、私は自分で持っている人も何人か知っている。土地を開墾するのに有効だが、草地になってしまった畑を掘り起こして一挙に草を退治してしまうこともできる。もちろんパワーシャベルは建設業者が一般的なユーザーであろう。「ユンボ」は「ホチキス」や「セロテープ」と同様製造会社名ないしはブランド名だったらしい。正式には「パワーシャベル」と呼ぶのである。建設現場で見るものはおおむね橙色のような暖色をしているが、この時期、水色が特に涼しげな印象なの である。この句を作った後、「ほんとにそんな色のものがあるの」と言われそうで、無意識的に証拠探ししていたフシがある。すると昨日、薄い水色の小型と、紫に近い藍色の大型のものを羽生市で見つけて、思わず写真を撮りに駆けつけたのであった、深層心理というやつである。

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2009年5月22日 (金)

茅葺

  茅葺を飛び交ふ夏のつばくらめ  括弧

芦の枚温泉近くの大内宿に寄った。会津藩が日光ー今市間を結ぶために設置した街道の一宿場である。道沿いに茅葺屋根が揃っているかImg_0851ら白川郷にも劣らぬ景観ではある。数十年前を知っておられる方は、異口同音に「昔は建物だけで、それも戸を閉ててひっそりしていた」という。俗化したということのようだ。今では一つとして空き家はない。すべてが展示場か土産物屋となっているのである。県と地元が協力しての大村おこし事業が功を奏したのである。日曜日ではあったが、いまどき観光客が引きも切らないのには驚く。宿の外れは小高い丘になっていて、登ると宿が一望できる。あまりにも美しい配列だが、福島県と下郷町が「養子縁組」して整えたとある。燕が盛んに飛び交うのは、こういう建物が営巣に適した構造をしているからであろう。

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2009年5月21日 (木)

山の宿

  はつ夏の音を窓から山の宿  括弧

10日に、中学校時代の友人たちと会津の芦の牧温泉に泊まったImg_0870。どういうところかわからなかったが、行ってみたら結構山奥で、宿の裏は落ち込んで急流となり、その向こう岸は切り立った断崖絶壁だった。行きつけの水上の宿に地形上似ていなくもないが、それよりも対岸の崖がはるかに近く、はるかに高いと感じた。いわば峡谷の中に閉じ込められているわけだから、瀬音は水上の宿におけるよりも強く、窓辺にまでべったりと張り付いてるのである。到着してすぐに、軽くビールを飲みながら、話をしていたが、互いに年齢のせいでこんなにも耳が遠くなったかと感じていた。相手の言うことがよく聞き取れないのである。あるとき窓を閉めてみて、あっと驚いた。急に聴覚が元に復したからである。それほどの短時間にこれほど老化が進むはずもなかったのである。それが瀬音だと気付きさえもしないほどに、瀬音が大きくあたり一面を支配していたのであった。

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2009年5月20日 (水)

鈴木医院

  戸を閉(た)てて鈴木医院は代田中  括弧

  日脚伸ぶ鈴木医院に患者かな  括弧

という句を句集にP5190044載せた。この医院は実在するが、プライバシーの観点から詳述できない。田と畑の中にあると言えばよいだろうか。今日の句、半月ほど前の休日の風景である。ストーリーを感じていただいてもよいが、実はあまりない。悠然と診療を続けている医院であるが、我が家の近くではないから、お世話になったことはない。「代田」は、田水を張って田植えの準備ができた田のことだから、機械化が進んだ現在ではその存在期間はきわめて短い。あっという間に「植田」となってしまうのである。だから探してみたが、意外にも写真は残っていないのであった。使用した写真は、吉見町のポンポン山頂上からのもので、「鈴木医院」とは何の関係もない。偶然にも昨日撮ったものである。

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2009年5月19日 (火)

噴水

  噴水のはたと止みたる日暮れかな  括弧

本物の噴水など、大学生になって東京に通うようになるまで見た覚えがない。東京は普通の隣人の通勤圏だったし、住居は田舎だったとはいえ、高校時代Img_0938は浦和まで通学していたのだから、今から思えば、少し脚を延ばすだけで上野へ到達できたはずだ。しかし、独りで荒川の鉄橋を渡ることなど当時の田舎出の高校生にはあり得ないことだった。

大学生になってから、ある夜上野公園へ出かけた。そこで突如噴き出す大噴水に接したときは度肝を抜かれた。照明も7色に変化するようなつくりだったから、現在のものと比べてもほぼ遜色ないものであったろう。今ではわが街にも、公園という公園には、大小の差はあっても、噴水が設置され、それなりに趣向を凝らした演出が見られる時代となった。噴水そのものにさほどの進歩はないかもしれないが、その数たるや、何倍になったのか想像することもできないほどだ。

「噴水」が何故夏の季語なのか。感じではよくわかるが、実際はオールシーズン噴き出しているものが多いから、不審に思うこともあるだろう。涼感を与えるという機能から一番効果的なのは夏だということは言える。私見だが、噴水は人工の泉だともいえるから、泉(出水)に準じているのだともいえよう。泉だって、冬場に涸れてしまうとは限らない。現に冬の湧水の温かさに芹が青々と伸びているような光景は雪国でさえ見られるほどだ。それでも山野を歩いて水が湧きだしていれば、口に含んでみたり手足を浸したりして楽しむのはどうしたって暑い時期に限られるのである。人工の泉である噴水に、都市の人々は失われた自然の代用としての慰撫を求めるのだろうか。そうでなければ、近代 都市のあちこちに、あれほどの数の噴水を設置したがる人間の志向は理解できないのである。

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2009年5月18日 (月)

初夏の雨

  はつ夏のひと日は雨に暮れにけり  括弧

立夏は、春の変わりやすい天候の上に乗ってやってくる。晩春はしばImg_1027らくさわやかな晴天で、「薄暑」に近い状態だったが、ここに至って天候が突然崩れた。立夏の日から終日の雨となり、その後数日間はぐずついた。そういう時は夏だというのに気温は低めに推移する。立夏に限らず、立春にも立冬にもそして立秋に対しても同様に、「暦の上では」とニュースキャスター氏が修飾語をつけられるのは、このような状況がどの季節の変わり目にもあるからだ。しかし私は、「暦の上」でだけではない重みをこれらの日は持っていると感じている。1日で季節が変ると言われて、私は納得する方なのである。主観的に気分が染まりやすいというわけではない、すでに「夏」が兆していた自然界の万物が大手を振って私の意識の中になだれ込んでくるのである。具体的にいうべきだろうが、そういうことを始めると、一大 論文になってしまいそうである。

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2009年5月17日 (日)

夏服

  夏服のサティーの袋揺らし行く  括弧

まだまだ寒暖の差はあ005って、「薄暑」の翌日が「上着の必要な日」だったりする。若い人などは昼間半そでで闊歩しているが、かにもすがすがしい初夏の雰囲気を盛り上げる。ただし寒い日にまでその格好で歩いていられると、見ている方まで寒くなってしまう。

街場での服装がラフになって来ると、持っているバッグまで店で貰ったポリ袋一つで間に合わせるというような具合になってしまうようだ。私の前で信号待ちしている若い女性もそんな恰好で、サティーの袋をぶら下げていた。「サティー」と赤い字が入っていたから、テナントのお店ではなく、サティーそのものが景品でも出した時のビニール袋なのでもあろうか。世の中 夏めいてきつつあるのだ。

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2009年5月16日 (土)

椎落ち葉

  立ち漕ぎの自転車とほる椎落葉  括弧

自転車の立ち漕ぎというのは疲れる。疲れるから、この年齢にImg_0932なると、できるだけ避ける。平成4年に通勤用に5万円台で買った多段式自転車がいまだ健在なので、坂があれば超ローギアに入れ替えることが出いる。だから立ち漕ぎすることはまずない。つくづくよいものは長持ちすると思う。

近ごろの「若い者」は、ひ弱だし、自転車に乗っていても携帯メールを打っているから、立ち漕ぎなどできまいと思っていた。しかしやはり、坂道に行き当たったり、よほど急いでいるらしい時には、彼らといえども立ち漕ぎするのである。そういう姿を見ると、「まあ、せいぜい頑張ってみてくれよ」とやや冷めたエールを心の中だけで送ることにしている。それにしても、走行中のメールだけはやめてほしい。2・3日前、深夜に帰宅する途中、暗闇で女子高校生の自転車に背後から擦れ擦れのところを追い越された。こちらはヒヤリとしたが、暗いこともあって、彼女の方でも私の存在に気づいていたのか、追い越した後でさえ 追い越したという認識があったのかどうか、きわめて疑わしく思えるのであった。自転車といえども凶器になりうるのですぞ。特に年寄りには注意しなければならないですぞ。

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2009年5月15日 (金)

行く春

  行く春や鳥居の奥に乗用車  括弧

散歩道の一つに加納の天神様がある。時々訪れては句を「ひねる」。Img_0791参道に万屋さんがあるが、元来は酒屋である。どこでもそういうものだったであろう。参道は生活の場でもあるから、車も止まる。こういう何気ない景色に奇妙に寂しさが漂う季節なのであった。境内の舞殿は板張りで穴があいているが、地面はいつもきれいに掃き清められていて 、祭りのときには巫女姿の人がお札を売る。ここには力石があるのも楽しい。

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2009年5月14日 (木)

木小屋

  行く春や木小屋の奥に人のこゑ  括弧

毎日のように農村を歩Img_0774いているから、昔懐かしいものによく出会う。「木小屋」という言葉は、かつて母方の親戚に身を寄せていた頃よく聞いた言葉だ。納屋のことを指していたようだが、元来材木置き場ということであろう。材木商でなくとも、農作業にかかわる木材を使う作業があったのか、近所のどこにも「木小屋」はあったようだ。私の散歩コースにも時々そのようなものが残っている家がある。その中で男たちが何か作業をしていたり、明け放った中のスペースで、お茶休みをしていたりする。まさかカメラを向けるわけ にもゆかない。

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2009年5月13日 (水)

葱の花

  三叉路に庚申塔や葱の花  括弧

葱が花をつければ、即ち本体は食料として不適である。そうなる前にP4260004食べてしまわなければならないのだが、それにもかかわらず畑の一隅に葱を残して花を咲かせているのは、種を採るためである。通称「ネギ坊主」と呼ばれる葱の花は、なるほど膜が裂けて小さな花の塊があらわになる前は「坊主」と見えなくもない。今では気がつかないが、背が小さい子供にとっては、葱坊主は強烈な臭いを発する難物である。少なくとも私にはそうであった。昔はコガネムシの類もたくさんやってきて蜜をあさっていたように思う。最近道端で見るものは整然と静かに立っているだけで、自然界の営みが賑やかに行われているようには見えない。害虫駆除が徹底したためであろうか。あるいは大人になって背が伸びすぎたせいで、こちら側の観察が行き届かなくなったのであろうか。たとえばカタツムリが2次限的な視野で見ている細部を、私たちは神のような目で見ることができるようになったために却って見えなくなっているのではないだろうか。何事につけ、細部しか見えないことから発する弊害と、逆に全体しか 見えないために生ずる弊害というものがあるだろう。

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2009年5月12日 (火)

納経帖

  墨匂ふ納経帖や若葉風  括弧

巡礼・寺巡りはしたことがImg_0718なかったし、納経帖の存在さえよくは知らないというほどの無信心ぶりだった。今年の正月に吉見観音に寄って、土産物屋でその存在に気づいたのが動機となって「坂東33観音霊場巡り」を志した。まさに「気まぐれ」に類するものがきっかけとなったのである。何年かかってもというつもりだとは、何度かすでに書いた通りだ。 5月2日に清滝寺と大御堂をめぐった。これで11寺「制覇」したことになる。3分の1を超えた。連休中だが最高の天候、最後には筑波山に寄ったこともすでに書いた。写真は清滝寺のもの。比較的こじんまりとした、素朴な味わいのあるお寺さんだった。

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2009年5月11日 (月)

上田城

  内濠は青葉に埋もれ上田城  括弧

帰りは上田城に寄った。信濃の遅い夏は、まだまだ春と言076 っても通用する季節であったが、ここまで下ると、「夏来たる」感は隠れもなかった。雰囲気を味わっただけで帰ったが、夢の国からうつつの世に戻ったというところだった。改めて見ると木の芽から若葉へ、若葉から青葉へと変ってゆく速度には恐るべきものがある。月並みだが、生命力というものが端的に表れる季節なのだと思い知った。

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2009年5月10日 (日)

雪形

  雪形を空に信濃の田植かな  括弧

またも信濃吟行_sp0000の続きである。帰途での車中から見た景であったが、写真をそこで撮れなかったのはやむを得なかった。「雪形」が季語として認められるとすれば、いわゆる季重なりとなるが、いずれにしても「田植え」を詠んだもので、夏の句のつもりである。

雪形と言えば、長野県の安曇野で見られるものがすぐに思い浮かぶが、元来雪解けの途中で山腹に現れる、037_2 何ものかに似ているとされる形を言い、 農作業の時期の決定に利用されてきたのである。この場合、残った雪がある形を成す場合と逆に溶けた黒い部分が形を作る場合に分かれる。いわゆるポジとネガである。Sさんにいただいた白馬岳の「雄馬」を参考までに載せた。これはネガである。

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2009年5月 9日 (土)

墓所

  墓所ひとつ夏にも白き山の下  括弧

昨日の続きである。このような墓所は農村地帯であればどこでも039畑隅のようなところに見られるもので、現在では整理整頓され、一族につながる人々が権利を分け合って、個別の墓を所有するような形になっているようだ。規模にもいろいろあって、1戸の旧家が独占的に大きな墓を設けているようなものも見られる。わが里を歩いていて、林内の細道の途中に突如墓所が現われて驚いたこともある。ここには供えられたばかりと思われるたくさんの花もあり、現在も先祖代々の墓として大切にされていることが分かった。 このような墓所を見る度に、いわゆる寺院墓地とは違った墓の成り立ちを垣間見る思いがする。この句のできた場所は、北アルプスの雪山が見下ろしている田道沿いにあって、誠にエキゾチックな趣をたたえているように思われたのであった。

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2009年5月 8日 (金)

残雪

  残雪のいただき映す田に夜明け  括弧

蓮華岳だろうか。木崎湖近くの宿泊所から見ると、見事な「姿態」037だ。日ごろに似合わず早起きしての散歩だ。湖周辺のここいらだけが盆地のようになっているらしく、早くも植田が出現していた。そこに山が映るのである。こごみ畑というものを初めてみた。昨年の今頃の話だが、この旅で見ることのできた山々の美しさは忘れられない。「残雪」だから春の句ということになるが、季節は初夏でもあるから、辺りには夏の季語だって揃っている。どちらの季節の句もできるというさわやかな日の始まりであった。昨年見た 景色を思い出しながらの苦吟でした。

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2009年5月 7日 (木)

木の芽和え

  饒舌が酒癖なりけり木の芽和  括弧

普通012  なら「コノメ」と読む。「木の葉(コノハ)」もおなじだ。「木の芽和え」はサンショの芽で和えた料理のことを言うものでこの場合「コ」ではなく普通「キ」として区別するのだそうだ。グルメな生活とやらには縁遠い、俳句を志す者としては失格の生活を送っているから、季語となる食物の体験が貧しすぎる。「今年はこれを食ってやろう」とか「あいつを食うために目的地はあそこにしよう」などと発想したことがない。たまにありがたい食物を味あわせていただいても、説明を受ければ「ふーム」と感心するが、1時間もたてば記憶は薄れる。猫並みの記憶力なのである。ただ名詞としては言葉はうろ覚えに覚える。「舌」を兼題として詠んだ句である。真実味に欠けよう。

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2009年5月 6日 (水)

銘菓店

  うららかや街の外れの銘菓店  括弧

お菓子屋に限らないかもしれないが、老舗と呼Pa240040 ばれるような店は意外と街の繁華街を外れていることがある。街のにぎわいが、鉄道の駅ができたり、再開発計画が実現したりして、昔とずれてしまうということがあるせいだろう。既に高名な店側にしてみれば、繁華街でないほうが余裕があって、返ってよいような場合だってあるだろう。わが町のお菓子屋さんも、伝統のありそうな店ほど駅から離れたところにあるようで、昔はここが中心的なにぎわいの場所だったのかもしれないと、逆に想像されるのである。「うららか」な感じとどこか合うように感じられるのは、こういう風な店で、交通の繁華な道路端などにあったとしたら、早いとこサッシ戸という遮蔽物を閉じて、外界と遮断した蛍光灯の世界に入ってもらわなければと、お店の方は考えるであろう。その一つの極致が都会の地下街のお菓子屋などであって、ここでは太陽やら新緑やら「うららか」などとはかかわりのない世界をむしろ商売の場としているのである。

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2009年5月 5日 (火)

  つばくろや道に田の土乾びたる  括弧

農作業が盛りを迎えようとしている。地域によるばらつきはあるImg_0784が、暦に合わせるかのように、わが近辺の田は次々と「代田」化している。「燕」だから春の句ということになるが、夏の作業である田植えが一部春から行われるようになって久しい。あぜ道や、時には田園を通る幹線道路にさえ耕運機の落としてゆく泥がこびりついていることがあって、何とも長閑な雰囲気を醸し出す。これから秋の相当遅い時期まで、田には燕が滑空する姿が見られる。春の季語とはいえ、夏の植え田に似つかわしい燕の飛翔である。水の匂いと光り、やがては青田となった頃には稲の放つ緑の匂いもこれに混じる。 この間も、そののちの刈り入れの季節までをも、燕はずっと田圃をとび続けるであろう。

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2009年5月 4日 (月)

茅花(つばな)

  風の日は形(なり)を定めぬ茅花かな  括弧

ツンバナと呼んでいた。P4260005方言はいろいろあるだろう。茅(チガヤ)の花である。甘いので口に入れて噛んだけれど、多くの方がおっしゃるように食べてしまったという記憶がない。草っぱらがあれば近くにたいがいこの植物の群落が見つかるから、丈夫な種なのであろう。雨を予告するような湿った風が茅花をを吹いていれば「茅花流し」という夏の季語である。「茅花」そのものは春の季語だが、立夏目前の今でもまだまだ方々で健在である。尤も口に入れるのは咲きたての柔らかいのがよいから、すでに時期的には遅いかもしれない。これほど風に対して 融通無碍に対応する植物も珍しい。これなら強風に折れてしまうこともなかろう。独特の雰囲気を醸し出す好印象を与える単子葉植物である。

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2009年5月 3日 (日)

白(はく)牡丹

  白牡丹もじやもじやしたる庭隅に  括弧

昨日は突然の出来心で坂東33観音霊場巡りを2カ月ぶりに再開、Dsc_0015往復2000円(!)の高速代金で、東北自動車道から北関東自動車道、常磐自動車道と乗り継いで、つくば市付近の2つの寺を詣でた。ついでに筑波山神社にも足を運び、筑波山にケーブルで登った。渋滞らしきものと言えば、行きの東北自動車道の栃木ジャンクション前で多小のろのろしたこと程度で、新しい北関東自動車道などは、試走場のようにすいていた。・・・がこの話はいずれ。

  白牡丹といふといへども紅(こう)ほのか  高浜虚子

・・・に及ぶべくもないが、私も「白牡丹」の句を作った。わが猫の額の牡丹もこの句のような惨状だけれども、残念ながら「白」ではない。これは通りすがりにふと見えた他人の庭の様子である。牡丹というもの、昔から花の女王のような扱いを受けているが、実際はかなりいい加減にしておいても咲くようだ。私は花が終われば枝を落とし、肥料をたっぷりやっておくが、後はほったらかしにしておくだけだ。それでも翌年はそれなりに納得できる花をつける。小さい鉢に入れて、そのままというようなのが一輪だけ咲いていたりする場合もある。狭い庭だと、色々なものがびっしり植えこまれていて、牡丹といえどもさほど手入れは行き届かない。それでもちゃんと咲いていたりするので、神様のように扱う必要はないのかもしれない。もちろん、木戸銭を取って見せる牡丹園などの牡丹は最高の状態を保持し 最高の演出を与えられなければならないとは思う。

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2009年5月 1日 (金)

木道

  木道の緩き曲がりや春深し   括弧

本題とは直接関係のない告白を一つ。私のネットへのかかわりにおいて決定的な事件の一つにホームページの作成ということがあった。たまたま当時使08412_002っていたパソコンにプリインストールされてた「ミックスパーク」というジャストシステムのソフトウエアを使った。まろつ転びつ、見ていられないネット上の知り合いからの助言をマメに受けながら、植物に関するエッセイどをメインテーマとしてわがHPは始まった。やがて旅行記や探訪記が加わり、果てはへたな詩を書いて載せたりしていた。植物や旅行の写真のほかに、表紙には日替わりの写真を特集するようになり、その写真を調達するためにデジカメで撮りまくった。友人各位からもプロ並みの写真の提供を受け、最盛時には日に何時間もパソコンに向かった。やがて容量が一杯になり「別館」を作った。このソフトでは写真がきれいに見えるのが一大特徴で、そのことは大勢の読者が言及するところであった。2004年の秋から5年間近い年月だった。2004年12月から「1日1句」というコーナーを設けた。それがこのブログにつながっていることになる。この4.5年間ほぼ毎日更新してきたのは、我ながらなかなかのことだった

長々と書いたが、67p6230019このわが「括弧・確固のホームページ」および「同別館」ともにいつまでも続け るつもりであった。今年の2月にパソコンをVISTA版に変えた。ミックスパークがプリインストールされた機種は見つからなかった。問い合わせるとすでに生産停止だという。万策尽きて、この、現在のところ「フリー」のブログだけで細々とネット生活を続けることにした。古いパソコンはネットから切り離して、おもに写真編集に使っている。新しいパソコンでは両ページは操作できないので、そのまま契約切れを待つことになった。「別館」は既に3月末で切れて。本館が四月末(昨日)で切れた。最後まで更新されないページにアクセスしてくださった方々にお礼申し上げます。さみしいけれど、作業時間は大幅に減りました。俳句に打ち込むべきだというお告げかもしれないと思っています。少なくともしばらくはこの新しいライフスタイルに慣れていきたいと思っています。

さて、今日の句。この八年間、当初は年に200回は訪れた、北本自然観察公園の木道である。ここは広大な敷地全体が、雑木林でなければ湿地である。湿地内に人が入れるようになっているのは、正門の向かって右側に広がる部分で、貴重な植物も色々生えている。そこいら中に水が湧出し て、澄んだ水が浅くゆっくりと荒川方面に向かって流れる。いつ歩いても気持ちの良い原っぱだ。

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