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2009年6月の投稿

2009年6月29日 (月)

分かれ道

  富士見ゆる道のわかれめ時鳥  括弧

わが里では、梅雨入り前の初夏の候でもなければ、夏季に富士Pim0499山を見ることなどはまずあり得ない。だから、こういう場面に遭遇する確率は相当低いように思われる。この句は御殿場市での思い出を、現在に置き換えて詠んだもの。妻の実家は御殿場市にあるから、新婚のころは、季節にかかわらずでかけ、富士山の裾野に当たるあたりをよく歩いたものだ。基本的に涼しかった。御殿場に限らず、普通の 山登りでも、富士の見える山はずいぶん歩いたから、この句を見ながらふっと思い出す場面もある。古い写真を探し回ったが、なかなかこの句にぴったりという場面を撮影してはいないようなのであった。掲げたものは40年以上も前に御殿場で撮ったもの。

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2009年6月27日 (土)

夏草

  夏草の迫(せ)り出してゐる雨後の川  括弧

まだ梅雨に入る133前の景色である。よくある眺めだが、俳句として詠まれているかどうかはわからない。川といっても、このような眺めは小川というか用水堀りというか、人工の小流れにありがちなものであろう。利根川の縁にもこのような部分はあるかもしれないが、あるとしても中流域あたりまでであろう。

昨日の「枝蛙」の記事を読まれて、Sさんが最近撮った写真を送ってくださったので、紹介したい。よく見ると、 Photo かわいいものである。クリックして、原画のサイズでご覧ください。

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2009年6月26日 (金)

枝蛙(えだかわず)

  寝入らんと聞きゐる夜の枝蛙  括弧

枝蛙・・・、アマガエImg_1027ルのことだ。モリアオガエルなどのいわゆるアオガエル科のカエルはアマガエルとはだいぶ違う仲間とされるらしい。生態上も、アオガエルは樹上から産卵するが、アマガエル(枝蛙)はちゃんと水中に産卵するのだという。ここにおいて、私の子供時代に遡る疑問は、いまだに晴れていないのである。昔からわが家から1キロ未満内には、池や沼などはなかった。しいて言えばどぶ川というべき溝があったが、それを言うなら現代はそれさえ全くなくなり、上下水道も完成したから、道路の側溝に水が流れるのは大雨の後だけだ。アマガエルはどこで繁殖するのか。

鳴き声は、近年ますます猛烈だ。庭のうっそうたる雑草と樹木のどこかにとまって、雨が予想されるような湿気を感じるや否や、猛烈な声で鳴き出す。今では塀に囲まれているせいか、声がこもって家じゅうに響き渡る。時間にもお構いなしだ。正直うるさいと思う。

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2009年6月25日 (木)

チェーンソー

  チェーンソーの煙のにほひ梅雨に入る  括弧

家庭で使うチェーンソーであれば、ほぼ電動式であろう。昔ながらのガImg_1214ソリンエンジン式のものは、今ではほぼプロ用に限られるのではないかと想像している。尤も、チェーンソーなど触ったこともない私が言うことだから、当てにはならない。

気づいた時には既にエンジンの音が聞こえ出していたので、目をやると、今や懐かしいとさえ思える真っ青な煙が立ち上っていた。煙はたなびきつつ静かにその形を変えてっていている。大木を伐っているのであった。このようなエンジンから立ち上る煙というものを久しく見ていない。物心ついたころにチェーンソーというものがどのくらい普及していたものか知らないが、学校からの帰り道で時々目にした古木の伐採風景は忘れられない。10人からの大人が集まって大きな鋸を交代で使っていた。斧のようなもので切り口を作ってから鋸の出番となる。何時間かかったものか、帰宅が遅くなるのを気にしつつ、いつまでも見ていたものだ。だから木を伐る場面と言ってもガソリンの匂いなどとは何の関係もなかったのである。

ガソリン式が、順次電動式ににとってかわられつつあるとすれば、チェーンソーのエンジンを始動させた時の、あの拳銃の発射直後に立ち上る硝煙にも似た、煙の色も匂いも再び 失われてしまうのだろうか。

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2009年6月24日 (水)

濃紫陽花

  鯉跳ねる音の止みたる濃紫陽花  括弧

菖蒲町の、やや有Img_1213名なラベンダー園から遠からぬ所に、鷺山公園がある。道路にまたがる築山と、花園沿いの池からなるもので、特に大きな公園とは言えない。人が殺到することはないが、切れ切れにではあるが、常時訪問者がある。この池での、とある日の情景を詠んだもの。意外にたくさんの魚が棲んでいる模様であり、蒸し暑い日など、鯉(と思われる)が跳ねることがある。それ以外は静かなもので、気持ちがくつろぐ場所だといえる。何気なく訪れる人々も、たいがいは大勢ではなく、2人連れで、というような感じが普通だ。地味ではあるが よい公園だと思う。春にはミモザ、夏にはラベンダーが目を引く。

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2009年6月23日 (火)

蓴菜(じゅんさい)採り

  (ぬなわ)採る舟に姉さん被りかな  括弧

羽生市にある水郷公園の池には、一面にヒシが覆っているP5180005部分がある。また所々にアサザが咲いていたりするし、ほかにも思わぬものが生えている可能性がある。何年か前の今頃、女の人が舟を使って何かを採っているらしいところを目撃した。浅いところだったので、舟は単なる運搬用だったらしく、女の人自身は釣り師のように、下半身を覆い尽くす長靴をはいて移動していたようだ。ジュンサイであろうか。アサザの葉も食料になるというからそちらだったかもしれない。ヒシはまだ収穫時期とは思えないので候補から除外した。

蓴菜というものを料理屋で食した時から、そのぬめぬめした食感が好きになった。あまりスーパーなどでは見かけない食材だが、手軽に入手できればよいと思う。

この公園には本邦最大規模の淡水魚水族館がある。近くの天然記念物ムジナモ自生地も有名だが、私は、何十回も出かけているのに、まだその場所を確認していない。まことに不熱心な観察者なのである。件の舟が採集していたものが本当に蓴菜であったかどうかも、怠惰なことに最終的な確認は しなかった。

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2009年6月22日 (月)

十薬

  薪小屋を犇(ひし)と十薬囲みけり  括弧

十薬はドクダミのこと。「毒と痛み(に効く)」がなまって「ドクダミ」となったP6070003という説が図鑑にある。十薬の意味は明らかだろう。こちらは「ドクダミ」の聞こえの悪いイメージをぬぐい去ろうというのである。ドクダミは繁殖力が強いということは、庭の手入れをしたり学校で草取りを経験したりしているだれもが承知していることだ。花が実に美しいなどと、私は大いにドクダミの名誉挽回に努めてきたし、多くの俳人は同じような立場をとって、ドクダミ賛美の句を作る。だが、ひとたび手を抜けば、屋敷うちはまずは、何者よりも先にドクダミに占領されてしまうこと請け合いである。ササやススキもチャンスがあればたちまち荒れ地を覆い尽くすことができそうだが、とりあえず日当たりのよくない放置された場所があれば、ドクダミが強いと思う。人が半年も立ち入らない薪小屋がこういう環境にあれば、この句のような場面が現出されるのであるが、これは山中のはなしではない。私の日ごろ歩き回っている範囲の中に、樹木に囲まれた農家があり、このような場所ができているのである。うらやましいような環境ではないか。

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2009年6月21日 (日)

篁(たかむら)

  (たかむら)の道に沿ふとき涼しかり  括弧

昨年の鎌倉P2230028吟行の句である。このような句はむしろ京都の嵯峨野を思わせるかもしれない。わが里にも竹藪はよくあるが、立派な道が竹林の中をまっすぐ貫いているというような構造のものは珍しい。農家の敷地内や、山林の一部が竹やぶになっているだけのことで、雑木林の延長みたいな感じだ。涼しいと感じるほどの竹の林を歩いてみたいものだが、これで、周囲への繁殖力も旺盛な植物だから、管理者は、竹が周囲へ押し出してゆこうとする力と戦い続けることになってしまうのでは、と要らぬ心配をする。

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2009年6月20日 (土)

萍(うきくさ)

  萍の版図のあをき夕日影  括弧

代田、植田を歩いてみれば、萍が日に日に勢力を伸ばし版図Img_1190を広げていく様子がビジュアルに表現されているとわかる。萍にも大小さまざまな種類があるが、それらが稲が大きくなったとき俄かにすべてなくなってしまうわけではない。ただ目に見えにくはなる。まだ植えて間もない田にそれが広がってゆく勢いは、定点観測しているわけではないから、正確にはつかめないが、おおむね次第に領土を広げてきた様子とその速度が推測できる。1枚ごとの田に広がり方の差ができていて、そこに、繁殖し始めから 、途中、ほぼ全面を征服したところまでが連続もののように表現されているからである。夕日の中で見たのでは、情感が邪魔だという意見もあろうけれど、この場合、赤い夕陽と青い萍の取り合わせがなんとなくよいようにも感じるのである。

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2009年6月19日 (金)

青羊朶(しだ)

  石塔と青羊朶ときに鳥のこゑ  括弧

「青蜜柑」や「青麦」05927のような例外はあるが、「青・・・・」がつけば夏の季語というのが原則のようだ。考えてみれば冬でも青い羊歯はずいぶんあるが、ただの「羊朶」はウラジロのことで、新年の季語である。

昨年鎌倉の寺で吟行した時の句である。見たものそのままだが、吟行句というのはこんなものではないだろうか。妙に「かさばる」思考を盛り込んでみても、かえって鼻持ちならない句になってしまうものだ…と思う。鎌倉の寺院には、昔の空気がそのまま残っていると思うことが多い。手入れの良い庭園であっても やはり、自然の地形を生かした構造であることに変わりがない。何度でも行ってみたい場所ではある。

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2009年6月18日 (木)

麦の秋

  築地塀めぐる農家や麦の秋  括弧

「麦の秋」または「麦秋」の季節も既に過ぎた。季語のうちでも、P6040006毎年使ってみたいもののひとつである。あくまでも、麦そのものではなく、それが熟している季節を表すわけだが、それは麦そのものがなければ感じることが不可能な「季節」でもある。もっといえば熟れた麦の畑が目に見えていなければ話にならないものだと思う。

旧川里町あたりの私的散策コースには大きな農家が多く、純白な壁が美しい蔵があったり、中には築地塀をめぐらせたお屋敷まである。そういう家は、家自体が立派なものだから、それぞれの季節にそれぞれの雰囲気を醸し出すことができるが、たまたまこの家に隣接する畑では毎年麦を作っているらしい。この家の畑だろうと想像されるが、確かめたわけではない。この家の高級なイメージに、麦の秋が似合うということに気づいたうえでの作付けであろうか

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2009年6月17日 (水)

  目の合ひし猫の逃げ出す梅雨晴れ間  括弧

なかなか梅雨入り宣言がなされなかったものの、例年と違って、宣言Img_1223がなされるや否やいかにも梅雨らしくなった。よほど満を持して発表のタイミングを狙ったのであろう。とはいえ梅雨入りの次の日は早くも梅雨晴れ間であった。「五月晴れ」というのは、新暦5月の快晴の日のことではなくて、まさにこの日のような梅雨の晴れ間を言うのだとのこと。現代人の多くは、このあたりを取り違えている可能性がある。

梅雨晴れ間には、気温がさほど高くなくて散策に都合のいいような日があるかと思えば、梅雨明け直前のように 、気温も湿度も最高値を示して、とても日当たりを歩くなどできないというようなこともある。先日は幸いなことに、典型的な梅雨前期の晴れ間であった。農家と新興住宅が相半ばするあたりの、いかにも田舎道という感じのところをを歩いていた時に出会ったのが件の猫であった。

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2009年6月16日 (火)

夏椿

  駅からの闇に一輪夏椿  括弧

こうなれば花シ106615リーズっきゃない・・・というわけで、既に過去の花になりかけている「夏椿」。椿と違って落葉樹だが、もちろんツバキ科に属する。「やはり」と出自を実感するのは、落花を見た時だ。花の形のまま落ちて溜まっている。「沙羅(しゃら)の花」ともいうが、お釈迦様ゆかりの「沙羅の木」は別種である。こちらは新宿御苑にあったような・・・。歳時記の傍題には「姫沙羅(ひめしゃら)」も載っているが、正式な和名でいえばナツツバキとヒメシャラは別種である。尤も、俳句で誤用したからといって、目くじらを立てるような問題ではない。互いによく似ているのである。ナツツバキだと思えばナツツバキで差支えないと思う。

この句、全くの咲き始めのころである。駅からの行き帰り、マンションの前にある小公園を通る。砂場もあり、公園デビューを果たした子供連れのお母さん方でいつもにぎやかだ。半分は小学生の遊び場となっていて、サッカーに興じている子が多い。夜は人っ子ひとりいないが、たまに 高校生のアベックがベンチにいたりする。

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2009年6月15日 (月)

金糸梅

  金糸梅雨後の夕陽を集めけり  括弧

昨日の未央柳と対をなす金糸梅Img_1175 の話である。大方は昨日の記事で間に合っている。大きな違いは、キンシバイには長い髭状の雄蕊がないということ。名前通り梅の花に形が似ている。すっきりとした咲きぶりが愛されているのからであろう、近ごろは方々の生垣の一部になっている。ビオウヤナギにどこか漂う陰気さが全くないのである。かといって底抜けに明るいというわけでもない。黄色という色はそういう色なのである。

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2009年6月14日 (日)

未央柳(びようやなぎ)

  病院に雨降る未央柳かな  括弧

「ビヨウヤナギ」、オトギリソウ科の木本である。どことなく花がオトギリソImg_1184ウに似ているが、血は争えないというところか。キンシバイと花が咲くまではよく似ている。葉自体はよく見れば小枝の垂れ具合などとともに大分違っているのだが、一見しただけの印象では区別がつかないほどだ。花が咲けば違いは歴然。ビヨウヤナギの方はその雄蕊が、村山元首相の眉のように長いのである。そばへ寄って見るとどこか老人を連想させるのはそのせいだろう。キンシバイの方は若者といった風情だが、ビヨウヤナギとの比較が、知らぬ間に観察者の脳内で行われるせいなのではなかろうか。咲く時期も同じようだから、どうしても互いの存在を意識しないではいられない。もちろん見ている人間の側としては、ということ。

雨中で咲いているのを見ると、雄蕊の髭の効果で 、わずかに惨めさを感じる。あくまで主観にすぎないのではあるが・・・。

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2009年6月13日 (土)

下闇

  下闇に陽の斑動かずもぐら塚  括弧

「下闇」は「木下P5180030闇」のこと。梅雨に入っていよいよ実感が強くなった。モグラの動いた跡は、自然観察公園の樹木が覆いかぶさった道ではよく見られるもので、私にとってはありふれすぎた取り合わせだが、陽が差さないから、十分湿り気を帯びた土の黒さが目立つのである。

別に「五月闇」ないしは「梅雨闇」という季語があって、こちらは主に梅雨時の雨天・曇天下の夜の暗さをいうのだが、「木下闇」と同様 昼の暗さも指す。樹の下でも夜でもないのに、病院の待合室などで「暗いなー」と感じることが多いのはまさにこの季節であるということには、どなたもうなずいていただけるのではないだろうか。

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2009年6月12日 (金)

ユッカ

  夕さりの社務所の裏手ユッカ咲く  括弧

リュウゼツラン科の外Img_1094_sp0000来種である。アツバキミガヨランという、いささかやんごとなき和名を持つ。ネットで2・3調べてみたが、語源は一致しないようだ。学名をYucca Gloriosa Linn というらしい。一説には英名がOur Lord’s Candleなのでそうで、和名はこれらの語に引きづられたものだと想像できる。

原産地の熱帯では5メートルにもなるというが、我が国では受粉に欠かせない蛾が存在しないため結実しないという。今頃と晩秋の2度にわたって咲く。花は名にたがわず、冷たい感じがしてどこか高貴でもある。私はここ何年か、ある農家から農道にせり出して咲くものを見ているが、路上に溜まる落花もしっかりしていて、地に積んだところもなかなかの風情だ。葉先は針よりもかたく鋭い。子供が遊びまわっているような場所では危険だと、だれでも思うだろう。葉先をすべて丁寧に切り落としたものをよく見かけるのは、アクシデントを避けるためであろう。

一見しただけで異国のものだという印象が強い。子供のころ、花は知らないまま、近づくのに抵抗感を覚えていたものだが、なんとなく 身の危険を感じたためだったのだろうか。あるいは、単なる異物を避けたいという本能的な感情に過ぎなかったのだろうか。

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2009年6月11日 (木)

夕景色

  小社や植田に映る夕景色  括弧

庚申塚の多さについて書いたが、祠の類も実に多い。地Img_1088区によっては旧家という旧家、つまり全戸が屋敷内に祠を置いているといえるほどだ。屋敷内に限らず、畑の隅、田の端、森の入口、野辺とあらゆる場所にあの小さな急こう配の屋根を認めることができる。中には道端に(あるいは田のヘリにというべきか)つる草のからんで、哀れな状態のものも見られることがあったが、時を置いて行ってみると、いつの間にか草は刈られ、すがすがしい姿で再生している。見捨てられる神様はいないようのである。どういう信仰心がこういう小社に息づいているのだろうか。考えてみれば、我が家 のような、戦後の食うや食わずの中でスタートした、「非」農家の人間には理解できないところなのであろう。

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2009年6月10日 (水)

三猿

  三猿の上に「庚」の字花石榴(ざくろ)

昨日触れた神明神社に近い農道にある庚申塔である。庚申塔Img_1057には三猿が描かれていることが多いが、浅学にして、猿が「干支の猿」だろうと推測出来るという以上の訳はよく知らない。庚申は「かのえさる」であり、日につけられた干支の組み合わせだが、「庚申講」が60日に一度と決まっていたというように、干支としての意味を保持する結果になっているとはいえ、この場合の「庚申」の中心的な意味は青面(しょうめん)金剛のことだという。青面金剛信仰はインド発祥ではなく、中国の道教などと結びついた存在だが、日本では独自の発展を遂げたものだそうで、非常にポピュラーな信仰だったらしい。実際わが里を歩いてみると、庚申塔や庚申塚の多さには驚く。この庚申塔からたった200メートルほど北に、同じ道に沿ってもう一つの庚申塔があることを確認している。よほどわが祖先たちの日常に入り込んでいた仏教の「神様(?) 」だったのであろう。

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2009年6月 9日 (火)

椎の花

  舞殿の床に積みたる椎の花  括弧

菖蒲町にある、長い参Img_1052道の林(社叢)を持つ神明神社の舞殿である。森に囲まれているから、周囲の地面は夏落ち葉で埋まっている。舞殿には壁がないから、床には塵埃がつもり、クスノキやシイノキの花が溜まっていた。正月には、農事に関する吉凶の占いを兼ねた火防祭が行われるというから、この舞台で舞などが奉納されるのだと思うが、今は人の気配はなく、ただただ常緑樹の 葉が落ちる音が切れ切れに起こるだけだ。こういう場所に一人でいるというのも悪くはない。参道は550メートルもある。かなり大きな本殿と舞殿、それに社務所があるとはいえ、境内はかなり広いスペースである。リンドバーグ夫人ではないが、絶対的な「隔絶」に浸ることも、時にはよいことなのかもしれないと、ほんの数十分だけのことなのに大げさな感想を抱く。

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2009年6月 8日 (月)

柳絮(りゅうじょ)

  息詰めて柳絮の中に入りゆく  括弧

「柳絮」は春の季語だが、自然観察公園では最盛期がつい少し前だP5180031った。一昨年北京市内のいたるところで経験した猛烈な柳絮については、何度か書いた。わが国では見られない現象と思っていたが、もちろんそんなことはない。大都市を席巻するほどの絮を発生させるに足る数の柳やポプラを植えている都市がないというだけのことで、柳の木がたくさんありさえすれば、部分的には北京に負けない(?)柳絮が見られる筈である。実際道に雪のように積もっていることも珍しいわけではない。思わず息を詰めてしまったのも、空中に漂う絮のあまりの多さに、本能的に身の危険を感じたからであろう。絮が肺に入っては健康によくないのかどうかさえ実は分からない。心配しなくとも、途中で引っかかって、肺にまで侵入することはないのかも知れない。いずれにしても、 健康上の危険について警告する文章に出会ったことはないから、多分問題はないのであろう。

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2009年6月 7日 (日)

銭葵

  自転車の澄まして通る銭葵  括弧

ゼニアオイはタチア04702オイと並んで、農村の人家および道端に頻繁に見られる植物だ。観賞用に植えられたものに違いないが、野生化もしている。今頃はタチアオイよりもゼニアオイの方が目につくような気がする。和名の由来は、花のかたちが銭に似ているからということらしいが、似ているいないは見る人の主観にもよるであろう。図鑑を見ていたらゼニアオイというのもあるらしい。こちらは、花は小さくあまり美しくない。花ではなくて葉のかたちが銭に見立てられているらしい。タチアオイに比べるとゼニアオイは、集団を組まず単独で存在しているという印象が強い。花弁の元の方が細くなっているので、花に切れ込みが入っているように見える 。色はくっきりしているので「強そうでしかもきれい」という感じがする。

一昨年の冬、母親が怪我をして、しばらくは整形外科にほぼ毎日アッシー君をやった。その医院の駐車場に、ゼニアオイがただ一本だけ、大きくしっかり育っていて、たくさんの花を咲かせ続けてた。ほぼ毎日見ていたのだが、霜が降りた日でも枯れこむことがなく、「一体いつまで?」と思っているうちに年を越した。寒に入って相当たってから、ある非常に強い霜の降りた朝、さすがに打撃を受けて枯れが生じた。間もなく完全に枯れてしまったが、私の中には、この植物の耐寒性に対する驚きが残った。

この句は農村の畑中の道を歩いていた時に通り過ぎて行った女子高生を詠んだもの。近くに人家はなく、新しい老人ホームだけが人の気配を感じさせる建物であった。帰りが遅れると怖い思いをするのではないかなと思った。

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2009年6月 6日 (土)

若竹

  若竹にときをり巡りくる日の斑  括弧

筍が皮を脱げば「若竹」である。「竹皮を脱ぐ」という季語もあるが、実際に皮P5180022が音を立てて剥落するところに出くわしたこともある。風が比較的強い日だった。かなりの音がしたが、落ちる音というよりは剥ける音だったという風に記憶している。

自然観察公園の竹やぶは、間伐も、筍ほりもあまりしないようだから、なかなか込んでいる。竹やぶは私有地になっているので入ることはできないが、すぐ脇の小道を通ることができる。濃い藪なので、昼なお暗い。うっそうとしているから、木漏れ日は数が少ない代わりに、その分印象的だとも言える。 写真を見て「まだ筍じゃないか」と言われそうだが、まあ大差はあるまい。このような姿から「一人前の」若竹までの生長は時間の問題である。最初は葉も付いていない小枝を張り出して、ひょろひょろしている。人のかたちになぞらえれば、形も定まらない表六玉である。この滑稽な姿もすぐに収まって、大人の竹へと一気に生長してゆくわけだ。

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2009年6月 5日 (金)

磐梯山

  白つつじ磐梯山を遠く見て  括弧

中学校時代の友人たちと会津に出かけたことには既に何度か触れImg_0921た。都合で帰途は会津若松から独り旅になったことも述べた。会津若松駅で予定外の時間ができたので、周辺を歩き回った。近くの公園に朴の花がたくさん咲いていたのが珍しく、近寄って見ると突然磐梯山が見えた。皆と別れる前のバスの中でも見えてはいたが、これほどの印象は受けていなかった。この山については、この後の列車での一人旅でその姿を満喫することになる。

公園には躑躅が咲き乱れていたが、この点ではわが里よりも春は大分スローに経過しているようであった。朴の花の時期には大差がないと思えたので、季節の推移が幾日遅れているというようには言い切れないものなのだと思う。

「磐梯山」という言葉の歯切れの良さにひかれる。高校時代に読んだ高村光太郎の詩に、

   二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は

   険しく八月の頭上の空に目をみはり

   裾野とほく靡いて波うち・・・・

で始まるものがあった。この詩が長く記憶に残っているのも、「磐梯山」という言葉の放つ音声的魔力によるものなのかも知れないと思ったりするのである 。

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2009年6月 4日 (木)

足の跡

  山なみや植田の底に足の跡  括弧

珍しい光景ではない。植えたばかりの田にはよく足跡が残Img_1023 っている。もちろん手植えした訳ではない。手押しの機械で植えたのである。狭い田であれば、その方が大型の機械を使うより能率的だということもあるだろう。わが里での話だが、夕刻に田道を歩いていると、植え終わった後の田に入って、倒れた苗を直したり、欠損した部分を、田水につけたまま残しておいた予備の苗で補ったりしている人を見かけることがある。夕陽の中で広い田にたった一人の人が動いているわけだから、景色にまぎれてしばらく気づかない。勤めを終えて帰ってきて、そのまま田に出たのではないかなどと想像をめぐらすことがあった。

この句は安曇野の石仏を見に行った時の光景である。近くの低い山ばかりでなく、常念岳を中心とする、雪形の出ている山々を望むことができた。植えたばかりの田だったから、手押しの田植え機を使ったのだろうなどと話し合った。

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2009年6月 3日 (水)

夏の陽

  夏の陽に沼もろともに曝さるる  括弧

今にも梅雨に入りそうな気配で、天気のはっきりしない毎日だが、1Img_0707・2週間前には、いよいよ夏だと思わせる日差しがあった。空気が湿っていない分、真夏よりも明るいし、紫外線も強かったことであろう。乾燥していればよいというものでもないだろうが、日本の夏の持っている人に苦痛を与える諸要素のうちでも、湿気が他を圧倒して主犯格だから、逆にいえば、気温が相当に上がっても湿気の弱い梅雨入り前であればたいがいはしのぎやすいのである。自然観察公園内の最大の沼にかかる八ツ橋で佇んでいた時の実感を即吟したものだが、写真は撮らなかった。別の小さな沼の写真を添えたが、この写真の方は雰囲気が涼しそうなので、実感が再現できていないと言えるかもしれない。居心地の良さでは、このころが1年を通してのベスト シーズンであろう。

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2009年6月 2日 (火)

木下闇

  木下闇よりヌーボーと大男  括弧

自然観察公園のう20045170022っそうとしたあたりの道は、この時期には実に暗くなる。「木下闇」という季語を覚えた時から、まずはこの場所を思い描いたものである。今でもそれに変わりはない。このテの句はほぼすべてこの場所で作るのである。「こしたやみ」と読んでいるが、歳時記には「コノシタヤミ」という読み方が標題になっている。また傍題として「下闇」、「青葉闇」、「木暮」などを挙げているが、私はもっぱら「コシタヤミ」である。冬でも暗い場所はあるが、今が一番暗さを意識する時期であることは事実で、季語として、事実の上からも今の時期にふさわしいのである。梅雨が深くなればますますこの感じは強まるが、、そうなると、「昼なお暗い」と表現されるジャングルの暗さに通じると勝手に思い込んでいる。休日にはこの場所にも蒸暑さをいとわず、結構ウオーカーが訪れるが、平日には、近年増えた「御隠居さん」夫婦に出会う程度で、なかなか静かな場所だ。私がここを散歩の場所の一つとしてから10年近くたつが、当時は、野鳥ウオッチングのシーズンオフにこれほど人に出会うことはすくなった。この句のような場面もめったには起こらなかったが、それでも大男が突如湧き出す様に暗闇から 現れると、心底びっくりしたものである。

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2009年6月 1日 (月)

走り梅雨

  走り梅雨三角形の寺の屋根  括弧

手づくり豆腐屋さん前の県道を渡ると、農家の塀沿いの道となる。Img_1085左側は畑で、県道側に祠がある。そのまま進むと農道といってよいほどの道を横切るが、ここは三叉路で、進んできた方向は休耕地でおわり、ここには草が生えているだけだ。その原っぱ越しにお寺の屋根が見えてくるのだが、光照寺である。無住寺だ が、手入れは行き届き、天然記念物のコウヤマキがある。何度も訪れているので、見る度に気持ちが和む。空地には重機が置いてあったりするから、土建業者さんが使っているのであろう。そこだけ見れば荒涼たるという感じをまぬかれないが、その中に浮かび上がる三角形の光照寺の屋根が雰囲気を作り上げているともいえるのである。

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