懸崖
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野菜買ふことも忘れず菊祭り 括弧
市の菊祭りが10月3
1日に始まった。願ってもない好天、なかなかの人出だった。毎年同じようなものが出品されているにすぎないといえばそうだが、見る度に心が浮き立つ。かつて皐月が流行った頃、若かったにもかかわらず、私もその栽培に少し心奪われた覚えがあるのだが、今考えてみると、季節のせいもあって、皐月展よりも菊花展の方が、行ってみて気分が晴れ晴れするようだ。
フリーマーケットに素人さんの店も出ていたが、他の露店は
すべて地元の商店のもので、店番をしている人たちの中には見知った顔もあった。菊祭りに限らないが、こういう集まりや道の駅等で、必ず覗いてみるのが地元の野菜を売っている店である。そいうところに出ている野菜の大 方は良質で割安なのである。
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木漏れ日に旧りし倒木ゐのこづち 括弧
菖蒲町から久喜市へ向かう街道から南へ入ると、久喜・菖蒲工業
団地の中に整備された公園がある。ここは昭和沼を中心とした緑豊かな場 所になっているが、周囲には工業団地特有の雰囲気があって、トラックがすぐ外の道路を走っている。数年ぶりに訪れてみた。秋の日の中で、噴水が光り、沼を1周するマラソンン(何かの予選?)のようなものが行われていた。秋には水がよく光る。すでに枯れ芒、枯れ蘆の世界となっており、落葉も盛んだった。「黄落」というのだろうか。
このような手入れがが行き届いているはずの場所に倒木があるというのも珍しい。山林でも人どおりが多いところなら、たちまち片付けられているところだろう。ちょっとした深山を歩いているように取ってもらってもよい。倒木のある光景は、私にはかえって好もしく感じられた。
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あはあはと家畜のにほふ秋ひなた 括弧
ここのところ、年間を通して最も気持ちの良い日と呼びたい
ような毎日である。最も気持ちの良い日が複数あるというのも変な話だが・・・。
桶川市に圏央道の新しいインターチェンジ(だったかどうか。ここから乗れるようにはなれるらしいからICでよかろう)が出来るらしい。工事は佳境といったところだが、ここは城山公園への入り口に当たる。工事現場に設けられた臨時の通路を通って公園に入った。公園内の歩道から、外へ出られるところがある。狭い道を少し行くと、実によい雰囲気のところに出られる。このあたりはただの畑作地帯だが、何か懐かしい風景なのである。10基の馬頭観音が並んでいる。秋の日が降り注ぐ。近くに牧場があるので、幽かにその匂いがしている 。一種の悪臭だが、この景色になじみきっているように感じられて、嫌な気分にはならなかった。昨日の記事に取り上げた茶の花はこの近くに咲いていた。
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茶の花の路傍に一花咲きだせる 括弧
その昔、母の実家に疎
開していた頃、つまり戦争中から戦後にかけてということだが、その家を出ると、そのまま一面の畑であった。枳殻(からたち)が垣根となって畑の一角を囲っていた。今でも枳殻がそういう場所に植えてあるのは珍しいと思う。
その畑の屋敷に面したあたりでは茶の木が生垣となっていた。隣の家でも、茶の木は畑と道の境に植えてあった。畑と畑の境界としたところもあったのではないかと思う。もちろんこれらは自家用のお茶を作るためにも使われていたもので、一石二鳥の役割を担っていたのである。その花と実は子供の遊びの材料にもなった。茶の木は、農村に欠くことのできない植物なのであった。
今でも当時の株が残っているらしく、畑の隅に花を咲かせていることがあって、なかなかの風情を醸しだしている。冬の季語ではあるが、すでに開花した花が見られるのはご存じのとおりである。
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色ものといへば泡立草ばかり 括弧
セイタカアワダチソウについては何度か書いた覚えが
ある。40年も前に関東地方に目だって進出してきたころには、野原も川原も威勢のよい大柄なこの植物の黄色で埋まったように記憶している。この勢いでは野山はこの花に完全に制覇されてしまいそうだという危機感を、実感としてもったものだ。自然界というものはうまくできているもので、次第に往時の勢いは衰えて、今や育ち損ねのようなみすぼらしい形のものばかりで、群落も切れ切れ状態になったようだ。自家中毒的な作用があって、繁殖に抑制がかかるらしい。
いまどきの原っぱ、この句のような状態である。草花は末枯れ状態に移行しつつあり、目立った花は、セイタカアワダチソウ以外見当たらないのである。「色もの」という語が浮かんで、そのまま使ったのだが、本来は着物の柄について言うテクニカルタームらしい。まあこのように使ってみるのも面白いのではないかと思うのだが・・・。
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時雨より同窓会へ入りゆけり 括弧
5年に1度中学校の同窓会が開かれる。昨日がそうであった
。卒業して50年もたってしまったが、5年に1度というペースが守られているのは、幹事団が結 成されていて日ごろの付き合いを欠かさないからだ、私はあまりマメにつきあってはこなかった方だが、退職を機に幹事団の旅行に参加させて貰ったりしているうちに、どうやら幹事団に編入されたようだ。今は個人的にちょっとした逆境にあるので、何の手伝いもできないまま、昨日を迎えてしまったが、一時的に外出欠乏症の境遇にあるせいか、次々と色々な友人たちと話しているうちに、実に爽快な気分になった。同級生の半数近くが市内に住んでいるので、彼らの多くにはどこかで時々出会うこともあるのだが、じっくり話せる機会は意外に少ない。あっという間に時間が尽きた。
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池巡る車椅子かな秋日和 括弧
平成6~7年ごろ3度ばかりイギリスへ行く機会があった。
その時気づいたことの一つに、車椅子で、家族あるいはボランティア(?)と外出している人の多さだった。当時の日本と比べてということだが、現在ではわが国でも、観光地で車椅子の人を見ることはそれほど例外的ではなくなった。とはいえ、いまだに印象に残る大きいな違いがこの地とかの地の間にあると思えて仕方がない。それは、車を押してもらっている人の表情の違いである。イギリスで見た車椅子の人たちは、ほぼ例外なく、明るく屈託がなかったし、にこやかでおしゃべりだった、・・・と思う。思い込みがあるかもしれないが、介護というものに対するかかわり方に伝統の差が顕著に作用している と思ったことは確かだ。自身も老いに近づき、身近に介護を必要とする人たちが存在するようになった今となって、ふと思い出す事柄の一つだ。
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菊日和木小屋の闇に人ふたり 括弧
今頃の菊香る好天を「菊日和」という。キクは秋の季語とさ
れながら、結構咲きだす時期に幅がある。菊花展などはたいがい立冬の後に行われているのだから、「菊」という季語に関する限り、普通の季語とは逆に「早すぎる」感じが否めないのである。とはいっても、農家の庭にはそろそろ花びらの見え始めた菊が見られるようになって、まさに「菊日和」感が漂っているのも事実、この句は、よく通りかかる「木小屋」のある農家の前での即吟であった。秋には空気が乾燥するから、大げさにいえば月の表面の場合と同様のメカニズムで、コントラストが強烈になる。この木小屋の中にはいつも誰かがいるか、そうでなければその前でお茶飲みが行われているか、ともかくこの小屋はこの家の生活の中心になっている感がある。木小屋の中は「闇」と呼んでよい ほどに外との明度差が強烈である。
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秋の田に影を落として古ポンプ 括弧
平野のど真ん中
で一面が田だから、用水だけではカバーできないほどの広さがあるのだろう、田植えの季節にはポンプが大活躍だ。もちろんたいがいは電動式で、ポンプ小屋に収納されている。その小屋から大量の水が噴き出している光景はおなじみである。だがどうかすると昔使ったのであろう手押しポンプが残っていることがある。実際にこれを使って田に水を入れているような悠長な作業ができる家はもはやあるまい。野菜を洗うのに使われているのかもしれない。久しぶりに歩いてみると刈り入れが済んだ秋の田には穭がすでが生えている。秋色は深い。あと20日ほどで冬に入るわけだから当然といえば当然。このような 冬へ向かっての季節の変化が身にしみる。
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机上には野分に落ちし榠樝の実 括弧
40年も前に実生の榠樝を数本、鉢のまま貰った。一時引っ越したりしていたの
で、そのまま5年くらい放置しておいたのだが、戻ってみると、鉢を突き破って地中に深く根を張っていた。鉢を壊して改めて玄関脇に植えたのだが、幹はくっつきあって、生まれつき多幹性の一樹だったかのように育った。この木を2階の高さ以上に伸びないようにしておくのが 、毎年大仕事なので、あるときからシルバー人材センターの方に剪定してもらうようになった。
当然ながら実がなる。今年は20個ぐらいついた。最近では貰い手もないので、そのまま捨てていたのだが、今年は心境の変化があって、砂糖漬けにしてみようということになった。2個をスライスして400グラムの砂糖に漬けた。まだまだあるので、ヨーグルトを作るために買った瓶に仕込んだ。ついには昔梅酒をつけるのに使った容器に6個ぐらいを漬けこんだ。全部スライスするのだから大変な仕事だった。偶然というのは恐ろしいもので、昨日スーパーの軒下で、古くなった商品の安売りをしていて、白砂糖が1キロ100円で出ていた。2袋買ったので、十分足りた。
いやはや大変な騒ぎだった。
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赤き実のたわわに遠く筑波山 括弧
ピラカンサと一般的に呼ばれている植物の範囲はよくわ
からない。サンザシのことだとは承知しているが、ことにトキワサンザシという和名を頭に浮かべる。ピラカンサという植木は普通常緑だからだ。我が家にもよく実をつける古い木があって、他の餌がなくなったころヒヨドリが数羽襲って1~2日の間にすべての実を食いつくしてしまうということは既に書いた。この句は渡良瀬遊水地、谷中湖の風景だ。昨日は1年に幾日もないといってよいほどの好天、ウオーキングの大団体が入っていた、ここで初めて経験する人出だった。「たわわ」など俗だが、他に適当な語が思い当たらない。等間隔に置かれているから、植えられたものだと思う。
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病院に背骨の略図秋黴雨(あきついり) 括弧
10月は、『天高し」のイメー
ジが先行するので、雨とはむすびつかないという思い込みがあるが、実際は秋雨前線の最盛期で、台風も来るから、意外に雨天が多いのだそうだ。言われてみれば全くその通り。現に今がそうである。
この病院はガラス張りで陽光を十分に取り入れられる構造になっている。奥まった待合スペースだから、直接光が入っくるとも言えないが、それにしても今日は暗い。照明があるから、夜並みには明るいのだが、それだけのことだ。延々何時間も待っている。今日は初診の方が多くて・・・と看護士さんも困った表情だ。病院通いは「待つ」という行為の連続だ。これほど待てるということ自体が驚きである。待って待って待ち尽くす。待ちくたびれたその先に命の果て があるという風にとらえれば、何にやらシンボリックな現象でもある。
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籾殻を焚く香ただよふ邑となり 括弧
旧川里町は今でも時々歩く。毎年のことだが、今頃から稔田は、順次刈
田に変わってゆくのだが、今は機械が優秀だから、刈り取りながら脱穀までできてしまうようで、田に藁だけ残されていたりする。昔のように藁が有用な素材ではなくなってしまったから、そのまま田で燃やされてしまうこともある。籾殻の方は庭先で燃やすこともあるのだろうが、田に盛り上げて燃やしていることがよくある。燃やすといっても、炎をあげて燃えるわけではなく、いつまでもくすぶり続けているにすぎない。数日後に同じ場所を通りかかると、まだ燃え続けているので驚いたこともある。独特の香りがして、空気の色まで違ったように見え始める季節のイベントである。
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コスモスに蝶など来ては天が下 括弧
コスモス畑などいまどき
珍しくもなんともない。一度やれば普通何年も続くから、年々その数は増えるのだろう。素材は到来物だが、びっしりと一面に覆われた大地は、少々神秘的でないこともない。しかし、「天が下」といっても、宗教的な気分を抱いたわけでは決してない。
「蝶」は春じゃないかと季重なりを指摘される向きもおありかも知れない。そういう方は少し外を歩いてみればよい。実景であると知った上で、この句の季語は「コスモス」だと納得できなければ仕方がないというしかない。「蝶」はこの場合コスモスにまとわりつく副次的な素材であり、その意味で季語ではない普通名詞なのだと作者としては納得しておく・・・。
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横ざまにひかりは顔に花芒 括弧
否応なく秋だと認めざるを得ない季節になった。芒は本来荒
れ地でも痩せた土地でも、どこにでも育つものだが、最近は中秋の名月用にと探し歩いても、住宅地などでは簡単に見つからない。見つからない方がおかしいのだが、それが実情だ。さすがに森の開けたところや川原などに行けば、いくらでも生えている。我が家には、30年以上も前にどこかで買ってきたヤクシマススキが、長年の虐待にもかかわらず、健在だ。さすがに一緒に植えこまれていたナンバンキセルは消えてしまったが、本体は無事に生き延びた。一昨年3鉢に分けて植え換えてやってからは、見事に勢いを復活させて、30年前の輝きを取り戻した。
秋だと感じるのは、光の強さとそれが空からやってくるときの角度の変化を認識した時だ。横ざまに顔に当たってくるようになった と感じることは、よくあることなのではないだろうか。
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咲き終へてなほ一列に曼殊沙華 括弧
「曼殊沙華」は言うまでもなく彼岸花の別称だ。畑の縁取りのように
、道に沿わせて、昨年あたり植えられたばかりという感じの彼岸花があった。なんとなくそんな感じがしたにすぎないのだが、彼岸花というもの、何年たってもたいして増えることもなく、同じような密度で,同じ位置に毎年咲くような気がしている。有名な巾着田の彼岸花を10年ほど前に買ったけれど、いまだに植えたままの位置に同じような本数が毎年出てきては花をつける…というような気がしているのである。かつて勤めていたところにも、毎年同じような咲き具合で現れる彼岸花があった。自然観察公園内でヒガンバナの咲く場所のみならず、場所ごとの花の配列までもが 、判で押したように毎年変わらないとさえ思う。増えるということがないのだろうか。元来が非常食用に田の畔、土手などに植えられたものらしい。墓所にも多かったことと、何やら恐山の風車などを想像させる花形をしていることもあって、なんとなく忌み嫌われたところもあるようだが、私などは全く気にしない。わざわざ入園料を払ってまで見に行く花である。自分の庭に植えて悪いわけがあるだろうか。
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夕陰となりゆく原のゐのこづち 括弧
エラそうに聞こえる
かもしれないが、小生唯一の著書である句集「ゐのこづち」のタイトルとなった植物で ある。これほど地味な植物も少ない。そして、ありふれた植物なのに、これほどその存在にすら気づかれていない植物も珍しい。秋に花を咲かせるとは言っても、全く花らしくない。秋のうちに結実するが、外観は花のときと同じようで、地味の極致である。とげがあって、動物や人間にくっついて移動する。ヌスビトハギなどと同じである。どこにでもというのは森の中でも原っぱでも田の畔にでもあるということで、日向にあればヒナタイノコズチ、日陰にあればヒカゲイノコズチである。同じものの呼び名が変わるのではない。種として区別できるのである。葉の細長いヤナギイノコズチ、丸っこいマルバイノコズチなども結構見られる。
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たうがらし迷ひきたれば二段ほど 括弧
16日に、観音めぐりの
うち21番22番に当たる日立の日輪寺と佐竹寺をお参りしようと出かけた。北関東自動車道ができて、水戸方面には行きやすくなった。佐竹寺には那珂インターチェンジを降りて、カーナビの教える通りに順調に到着、無事お参りを済ませた。カーナビに頼ると決めていたから、日輪寺も楽勝とタカをくくっていた。カーナビに到着予定時間が表示される。2時間以上もかかると出た。50キロ以上の道のりである。国道を離れると、延々とすれ違いもおぼつかないほど細い道が続いた。かの有名な福島県の矢祭町に近い山中なのであった。この林道に入ればあと5キロという角で「この先3キロで通行禁止」とあった。崖崩れがあったらしい。途方に暮れているうちに、おそらくは寺の関係者が最近つけたと思われる手書きの道しるべが見つかった。曲がらずに県道をそのまま進めば寺にはたどり着けるらしいとわかった。だいぶ時間をロスしたけれど、遠回りしてでも行ってみることにした。33霊場のうちでここがで最後まで残ってしまうことになれば、この1寺のために、この僻地を再訪しなければならなくなると考えたからだ。
車が通れるのだろうかと危ぶまれるほどの細い道を進むことおよそ30分、県境を越えてようやく別の県道らしき道に出た。右へ回り込む・・・・と、そこには再び「がけ崩れのためこの先通行止め」の表示が・・・。左へ道をとって、宿泊地の水戸へ向かうほかなくなった。ぼろぼろの気分で走っていると、寒村の蕎麦畑の花の白さが目に染みた。車を降りてみると、既に蕎麦畑の先に来ており、 手前に唐辛子畑が広がっていた。つややかに実った唐辛子が無数に下がっている。これを見ただけでだけでも来たかいがあったと思わせてくれる(?)光景ではあった。
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新涼の朝の寝床に聞くラジオ 括弧
涼しくなったと感じる時期は年によって違うけれど、今年は8月中の
比較的早い時期に「新涼」を覚えた。朝はラジオを聴いている。寝床から始まって 、朝の仕事全般をこなしている間ずっと携帯ラジオを聴いている。ゴミ出しに行くときもイアフォンを耳にあてたままだ。長い間愛用していた小型ラジオが壊れたのをきっかけに、かえてもかえても、決まって作業中に胸ポケットから落として壊してしまう。ついにネットで丈夫そうなのを探し始めた。ネット販売しているラジオの種類の多さに驚いた。1000種くらいはあるのではないだろうか。今までのものより2回りくらい大きいのを求めた。送られてきたものは大きいばかりか無骨な感じで、欧米の町工場ででもできたのかと思うほどだった。一応パナソニックのブランドが入っている。1日使ってすっかり気に入ってしまった。音がいい。安定しているから落とすことはめったにない。万一落としても、普通の場所に落としたくらいでは壊れないだろう。使ってみると、単三2本で、一日5時間使っても1ヶ月はもつ。ラジオはは大きめのものに限る。
明日はお休みします。
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菊芋の他とりたてて花もなし 括弧
高山へ登れば今や花野のまっ盛りであろう。いやすでにその季
節は過ぎたかもしれない。例年ならば、今頃までにどこかへ出かけて秋の花を堪能してきているはずだ。今年はどこにも行けないから、ひたすら野歩きをする。小さな地味な花が叢にある。山林に入れば水引草がその実に細い命を光らせてはいる。野にも林にもイノコヅチが花期を終えようとしている。尤も、実になればその控え目な容貌が変化するというのでもない。田にはイヌビエ、畦にはオオイヌゲイトウやイヌゲイトウなど、いずれ劣らぬ地味さ加減である。菊芋をご存じない方も多いようだが、今頃田園地帯を歩きまわれば、他に際立った花もないから、きっとお目にかかれますよ。
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遠くより僧侶応(いら)へる萩の花 括弧
平塚に泊まり、翌朝はホテルと提携している喫茶店で、トーストと
ゆで卵を主体とした朝飯を食べたが、これがえらくうまかった。このホテルはウイークリーマンションの作りで、法的にどういう位置にあるのか分からないが、マンションの1室をひと晩借りたのだと思えば早い。従業員らしき人は夕方の5時から9時まで主に受付業務をやっている人だけだ。この若い女性がなかなか有能でかつ感じがよかった。ネットで探した宿なのだが、普通のビジネスホテルだと思っていたので最初は戸惑った。万一事故があった場合のさまざまには疑問が残るものの、j結果的には悪くない選択だった。何より1000円分のクオカードか朝飯等のサービスがあるので、実質5000円で清潔な宿に泊まれるということ。私は朝飯と、残り500円分のクオカードをもらい、それで夜のビールと水と野菜サラダをコンビニでゲットした(若者みたい)。意外に利用者が多いのも驚きだった。
さて、翌朝は台風の近づく気配を感じながら小田原へ列車で行き、勝福寺へ参った。雑然感が漂うのは、改築工事中のためである。道を隔てた駐車場はいわゆる会館のもので、寺の直営かもしれない。折から周忌を修している一団があって、車の出入りが激しい。本堂はむしろ寺の外れにあって、廊下に呼び鈴がある。 気づかづに声をかけたら、思わぬ方向から返事が帰ってきた。
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霊場2番の岩殿寺には、先に3番の安養院までタクシー、安養院を見てから、再びタクシーで行こうと決めた。岩殿寺はJRの逗子駅から10分程度とあったけれど、安養院から最寄りの駅までが遠そうだったからである。マイナーな道のか、タクシーがなかなか見つからない。逆方向へ向かっているのをようやくキャッチできた。
小山の中腹に、段々畑よろしく伽藍が高度を変えて並んでいる。ちょうど植木の手入れをしているところで、山門は散らかっていた。その上の瓦に、アレチノギクが数本見事に伸びていた。奥の院までは少し堪える磴をのぼりつめる。静かな場所であった。人っ子ひとりいない。ここでもベンチにしばし休んだ。蝉の声ばかりという感じだった。
帰りは逗子駅まで歩いた。
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茅葺に観音おはす残暑かな 括弧
観音巡り開始後8カ月にして、今回ようやく第一番、杉本寺にたどり着いた
。散策して楽しめばよいのだが、1日で4寺回りたいと思っていたので、鎌倉駅からタクシーを使わざるを得なかった。到着するやいなやバス停で時刻表を調べておいて、駅へ戻るときはバスを利用した。
石の階段を登る。途中苔を保護するために立ち入り禁止になっている石段があって、そこを回り込んでサイドから登ってゆく。茅葺の本堂一つだけというような印象の伽藍配置であった。そこに上がりこんで、仏像を拝しながら納経帳への記入を待たせてもらった。有名だが、ある意味でシンプルな寺である。
外に出て、ベンチに座ってしばらく雰囲気に浸ってみた。秋蝉の声がうるさいくらいだった。なぜか鎌倉では法師蝉の声はほとんど 聞こえなかった。
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大仏のおんよこがほや樗(おうち)の実 括弧
実は土日を使って
、坂東33観音霊場巡りのうち、車では行きにくそうな鎌倉周辺を訪ねた。土曜には鎌倉市と逗子市の4寺を巡り、平塚に泊まって、日曜には小田原の勝福寺と横浜の弘明寺を加えた。全部で6寺を済ませた。今年の正月から始めた霊場巡りは、総計20寺を終えたことになる。
長谷寺のついでに、近くの鎌倉大仏を訪ねた。山門を入り木立の中を回り込むと、やがてぬっとお姿が見えた。「大きい」と改めて思った。記憶の中ではもう少しこじんまりとした姿に思えていたのは、奈良の大仏との比較が常にあるからだろう。お姿を1周してみた。樗(センダン)の実がまだ青いけれど、大きくなっていた
。葉は青々としていて、大仏さまからこれほど近い植物は他にないから、そのみずみずしさが目に沁みるようであった。背後から 回り込んで横顔を拝見すると、正面から見たお姿とは別の意外な表情を見るようで、ちょっとした戸惑いがある。大仏さまは「美男におはす」そうだが、この位置から見る大仏さまは、 少し猫背であらせられることに気づく。
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工場より鉄打つひびきあをぶだう 括弧
つい先日のこととと思っていたが、1月も前になる。「青葡萄」は季語
としては夏であるから、それで理屈に合っている。私が散策するルートの一つに、工業団地付近の田圃と新興住宅地が混在したような場所がある。もちろん旧来の農村そのものと言えるようなたたずまいを保った界隈も含まれるのだが、全体的にどこか騒々しい感じも否めないのである。
所々思い出したように葡萄畑が点在していることに気付いた。この辺の気候ではたいしてすぐれたものはとれまいとは思うが、葡萄畑というものの持つさわやかさはよいと思う。『葡萄畑の葡萄作り』というタイトルを思い出した。ルナールの短編だったろうか。葡萄が喚起するイメージには、どこか西洋風なものが付きまとっているような気がする。
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沼暮るる頃をつくつく法師かな 括弧
ホウシゼミといえ
ば昼間という感じを持っている。同じ秋の蝉とされるヒグラシの活動時間は、逆にその名の通り夕暮れということになる。もちろん昼なお暗い杉林などでは、昼間から盛んに鳴いていることはどなたも御存じだ。つくつくの方が暮れゆく沼で鳴いているのは、この日最後の一粘りである。元来この蝉が、短い秋の初めをひと声でも余計に鳴いておこうと、貪欲な態度で鳴き暮らしていることは承知している。夕方もぎりぎりまで「オシーオシー」などと粘るのである。蝉と儚さなどと並べれば、俳句でよく言う「つきすぎ」もいいところだが、確かに彼らには時間がないのである。あわて者のホウシゼミ諸君は、他のアブラゼミ、ミンミンゼミなどと比べて、声に屈託がなく、鳴き声はとても明るいのでもある 。
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触れずにはおけぬままこのしりぬぐひ 括弧
秋の湿地に目立つ蓼
科三兄弟と言えば、ミゾソバ、アキノウナギツカミそしてママコノシリヌグイである。・・・と決めているのは、いずれも自然観察公園でよく見られるからだ。それぞれ葉のかたちで区別できるが、一番多いミゾソバは湿地に群生している。アキノウナギツカミも葉のかたちを別にすれば同じようなものだが、ミゾソバが一番ポピュラーなのではないか。アキノ…は、一の倉沢出会いの川原に群生していいるのを見た記憶がある。
さてママコノシリヌグイだが、命名の訳は茎に逆向きについている棘の鋭さにある。アキノ・・・も同じ理由からの命名だろうが、ママコ・・・の方は、群落という感じでは生えていない。道端などに比較的独立性を保って生えているのである。丈が高く、1メートルくらいにはなる。いくら継子が憎いからといって、こんなもので尻を拭われたら、拷問というに等しいだろう。
明日は記事を休載します。
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立秋の月に添ひたる星ひとつ 括弧
中天の月だったから金星ではない。時間も遅かった。今年の立秋
は雨でしたよと言ってくれた人もいるが、私の俳句一覧によれば、深夜には再び晴れ間が出て、月が見えたことは確からしい。星のことは私の数多い弱点のうちだが、一つだけ見えていたとすれば、一体何という星だったのだろうか。相当明るい星であるはずだから、定めし名のある星なのではないだろうか。だがその時の私にとっては、そんなことはどうでもよいことだった。
ところで、先日の記事でマムシグサのことに触れたところ、さっそく森江氏から、山梨県の白州町で撮られたという写真をお送りいただいた。ご紹介します。是非写真をクリックしてご覧ください。
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バスタオル干さるる庭の韮の花 括弧
「韮の花」は夏の季語とされる場合と、初秋のものとされる場
合とに分かれるようだ。今がシュン、韮という植物全体に勢いがあり、すっきりと直立した茎が真っ白な花をたくさんつけて光っている。実に自尊心の高い植物だという気がする。朝顔が秋というほどの感覚であれば、韮の花も同様と言ってもらった方が釈然とする。
農村地帯にある、農家の分家かと思われる新しい住宅には、たいがいスペースがあるから、庭に贅沢な物干し場がしつらえている。都会なら暑苦しさを助長するようなことがあるかもしれないが、こういう場所で見るとどこか昔懐かしいようで、私は好きである。その昔どこの家もこのようなスペースを大なり小なり持っていて、庭のヘリにはたいがい韮が植えてあったものだ。
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芋畑にことに揺れゐるひと葉かな 括弧
「芋」とあれば里芋
のこと。ムカ~シ、朝日新聞の連載記事に体験的レポート、「ニューギニア高地人」というのがあって読んでいた。あの伝説的な本田勝一記者による「アメリカ合州国」連載の後だったから、その手の連載レポートには目を通す習慣ができていたのである。その記事の中に、彼らの主食はタロイモだとあった。自生している芋をうまく利用して、農業というよりは採取に近いやり方で食べているというのだった。その後に得た知識では、タロイモはサトイモ科で、わが蒟蒻や水芭蕉などと同類だ。あの マムシグサなどという、いかにも毒々しい形態の植物とも同族なのであった。毒々しいと見る人間の目は確かで、この仲間には有毒なものも多いらしい。里芋は、たまたま水に晒さなくとも毒にあたることがないとう、タロイモのうちでも最も人間にとって優れた品種の一つなのではないだろうか。見た目にも有毒とは感じられない。
あの大きな葉っぱもすぐれものだ。重量感がよい。細毛があって、表面張力で水玉が溜まる。それが「芋の露」という季語を産んだ。
茎は食料にもなるし、お盆に門火を焚くための燃料ともなる。里芋は誠に日本人にはなじみ深いタロイモだ。農村を歩いていると、どこの家でもいくらかは自家用に栽培しているようだ。私にとっても非常にお気に入りの食材である。
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落雷を見てゐるビルの玻璃のうち 括弧
テレビの天気予報を見ていると、落雷の数と場所を示す絵をよく見せ
られる。その数の多さに驚かないではいられない。よくも我が家に落ちないものだと感心して胸をなでおろすわけである。雲への帯電量が一定程度以上になれば、それが解消されるまで何回でも地面との間に放電現象が起きるのであろう。浦和駅前に最近できたパルコの十階は市の施設が集まっている場所なのだが、そこで句会をよく行う。この階の広いホールはガラス張りで、遠方まで一望できる。雷が落ちるところなど、続けざまに何度でも見られる。実に美しい光景だ。自分の身は安全なところにおいて、音さえほとんど聞こえない状態のまま、他人が被っているであろう不幸を 平然と見ている、一種卑怯者の境地にいたるのである。
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風立ちて地の病葉を揺するほど 括弧
秋に入ったから、「病葉」と呼べるものは建前上なくなった訳だ。・・・
がそんなことはない。桜などは葉桜になった直後から黄変した葉が少しづつ散り続け、秋も深まって紅葉になっても散り続け、冬に入るころまでには坊主になってしまっている木さえある。もちろんべての桜木がそうだというのではなく。中にはそういう場合も相当にあるということだ。桜に限らないが、病葉となって降る葉の数が多くて地に溜まっているほどのことがある。夏であればこの病葉を揺するほどの風でさえ、貴重な涼を呼ぶ源泉となりうる。空気が動いている証明だから、気分的に涼しいのでもある。風は不安を呼ぶほどの ものではない。もう少し強い風がほしいものなのだが・・・。
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かうもりと鬼灯を提げ帰りけり 括弧
お盆前の話だが、1キロほど離
れた歯医者まで徒歩で向かった。帰りは少し遠回りして、さらに歩いて来ようというつもりであった。歯医者の治療が終わって、線路伝いに南方向へ歩き、さらに東方へ回り込んで帰りかけると、間もなくコープの建物が見えたてきた。ふとお盆用の鬼灯を買い忘れていたことを思い出した。盆用品ならどこのスーパーでも扱っているので、鬼灯はコープでも買えるだろうと思い当たった。非常に長いものを1本求めて、店を出た時、こうもり傘を持っていたことに気づいた。こちらも負けずに相当に長いシロモノだ。おまけに小物入れを抱えてもいた。こうもり傘を左手にステッキのように持ちながら、右手で、地面に届きそうになる鬼灯をちゃんと保持して歩くのは、 結構大変なことであった。どちらの手で小物入れを持ったらよいかわからず、ときどき持ち替えたりしなければならなかった。家まで約2キロ。降り出しそうな空の下、ようやっとの思いで家へ辿り着いた。私の姿をたまたま見た人たちは、さぞかし奇妙な人が歩いていると思ったことであろう。
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鈍行の入りくるホーム大西日 括弧
「西日」は「夕焼け」と同様夏の季語とされる。西日そのものは冬でもな
いとは言えないが、あの暑さを長引かせる、夏の夕方の西日ほど迷惑なものもない。西日といえば夏というのはよくわかる気がする。
夜の句会へと夕方の列車に乗ることがよくある。時刻が遅ければ夕焼けだが、まだその段階にまでは至っていない。日が傾き始めると、さすがに高かった夏の太陽も地平線に向って落ちてゆく。やがてホームの天井の下から、列車を待っている私の顔のあたりまで入り込んでくるようになる。夏の雲があるにはあるが、太陽の方角の空は剥き出しだから、その光は強烈な夏の日であることに変わりはない。今夜も熱帯夜だろうかと 思う。
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早や秋の風吹く日光中禅寺 括弧
12日に、久しぶりに坂東33観音霊場巡りを再開した。この
日は栃木県の3寺を巡り、これでようやく14寺を訪れたことになった。日光中禅寺は、小学校の修学旅行で行っているかもしれないが、全く記憶になかった。大きな寺だ。本尊の観音様は、1200年前、立木のままの桂の木を彫ったものということで、「立木観音」と呼ばれている。中禅寺湖のほとりに大伽藍が並ぶ。
気づいたことがある。1日で3寺くらいを目安に巡っているが、そのくらいの単位だとその日に見る寺は同じ「文化圏」に属することになるためだろうか、参拝者への対応にその日の共通点がみられる。たとえばこの日、他に大谷観音と出流観音を見たが、3寺ともに、納経帳を預けてから参拝し、帰りがけにそれを受け取るという方式をとっていた。今まで訪れた寺にはそのようなことがなかったように思うので、これはこのあたりの寺同士が互いに影響しあいながら出来上がった独特の手順なの かも知れない。
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夏萩の揺れて降り出しさうな空 括弧
萩のうちでも、一番見慣れ
たものはミヤギノハギであろう。9月と言わず、7月からすでに咲いていることがある。あるいは別の種類なのだろうか。これを「夏萩」としたわけである。最近まで日照時間が記録的に短い夏だったから、いつも曇っていた。夏萩を扱ってもこんな句になってしまう所以である。
以前、所ジョージさんの番組を担当しているディレクターさんから、当時私が作っていたホームページのミヤギノハギの画像を使わせてほしいというメールが来た。喜んで同意したのだが、東北大学に絡む話で、仙台のシンボルともいうべきミヤギノハギの写真がなかなか見つからないので…ということだった。2秒間くらいはテレビ画面に映ったようだ。仙台といえば宮城野、そういえば『奥の細道』に「宮城野」の項があって、「宮城野 の萩茂りあひて、秋の景色思ひやらるる」とあるところを見れば、この萩は特に宮城に多かったものだろうか。
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蝉穴の踏まれし跡をとどめたる 括弧
今年は蝉が少な
いと多くの方が言っておられるから、たぶん7月中はその通りだったのだろう。その割には蝉殻の数が多いというのも一致した見方のようであった。天候不順のせいで活動が弱かったのかとも思うが、本当のところは分からない。今日は白鷺公園に行ってみたが、木立の中で蝉時雨が盛んであった。今頃になって、活動を活発化し始めたのだろうか。ミンミン蝉の声も混じっている。気の早い法師蝉が遠くで鳴き始めた。
蝉の穴というもの、なかなか潰れそうでそうでない。だから、夏が終わるまで、数は増え続けていゆくわけで、この句のようなものも珍しくなくなる。神社などの固い地面にできたものには指を突っ込んで探った跡が残っていたりもする。何を隠そう、私自身が子供のころ、地下から出てくるばかりの姿勢で待機中の蝉の幼虫を、夜が来る前に掘り出しては遊んだものであった。その夜に 出てくる予定の蝉は、午後には小さな穴をあけて、その下でじっとその時を待っているものなのである。
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街騒(まちさい)を背に花火へと向かひけり 括弧
わざわざ花火大会に出かけることがなくなった。何十年も前に熊谷へ出かけたのが最後だった。駅からそのまま歩いてゆけるのが便利だった・・・と、すで
に書いたことがある。隅田川などで見ようと思えば相当に無駄なエネルギーを使うことになるだろうと予想できるので、どうしてもその気になれない。近ごろでは市町村の数だけ花火大会があるのではないかと思えるほど、シーズン中はあちこちで「ドンドン」やっている。出来心でのぞいてみることもしないのは、熱意に欠けるからである。季節にかかわらず、全く別のイベントに付随して打ち上げられる花火のうちにもなかなか唸らせるものがある。この場合花火を見に行ったわけではないから、不意打ちを食った状態になるのである。行田の火祭は5月だが、最後に数十発打ち上げられる花火は迫力満点だった。、昔関係していた学校の文化祭の閉会式で十発ほど打ち上げられる花火も、校庭という意外な場所で行われるというだけで、日常性からひとっ跳びできるという、気持ちの上での効用もあって 楽しかった。
今年某所で、浴衣姿の娘の集団が次々と荒川土手に向ってゆくところを遠望して、なるほどと思わせる雰囲気を感じ取ったのである。
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さざ波の動きゐるとも見えず夏 括弧
秋に入っているというのに夏の句では申し訳ないのだが
、梅雨の続きのまま盛夏を飛び越えて秋となってしまったので仕方がない。今シーズンは、蒸し暑さだけが夏らしいといえば夏らしい現象であった。八丁湖は、坂を上り切れば眼前に広がり、三方を囲む樹木の茂った丘陵の山腹を映している。水面の空の映った 部分だけが白く光っている。曇りがちな時ほど、湖に映る空は明るいのである。だからさざ波が見えるのは空が映っているところだけだ。ほかは深い緑色を映して、むしろ黒っぽく見える。こちらが移動しない限りさざ波のゾーンは動かないから、その中に無数に立っている個々のさざ波もじっと動かないかのように思える。風はないに等しく、やたらと蒸す日である。
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咲きだせるものに菊芋雲白く 括弧
キクイモと犬キクイモさらにはキクイモモドキについては、閉鎖してしまっ
たホームページで詳しく取り上げたことがあった。パソコンを変えた時、新しい機種にそれまで使用していたソフトが入っておらず、別売りのものも既に生産停止となっていたので、継続をあきらめざるを得なかったのである。
その記事を書くために、相当熱心に調べた結果、キクイモとイヌキクイモに大差はないという結論に達したのであった。「イヌ」とつけば役に立たないものということで、たとえば蓼(この場合はヤナギタデ)に対してイヌタデは「ヤナギタデのように刺身のつまなどとして使えない蓼」という意味である。イヌキクイモは「塊茎(つまり芋)が小さいので、食料として使えないキクイモ」ということになる。キクイモとイヌキクイモの間には遺伝的に大差はなく、小さな芋しか付けられない傾向を受け継いだものが、「イヌ・・・」という犬に対しても失礼な名をつけられてしまったらしい と考えてあげたいのである。
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築山に登る路あり蝉しぐれ 括弧
「蝉しぐれ」は藤沢周平の小説で有名になったが、、おそらくは元来万人
が好む季語であったろう。よくもまあ、蝉が一斉にかつ濃淡を持っていつまで鳴き止まない様子を「しぐれ」にたとえたものと感心する。いつまでたってもいわゆる「手あかのついた比喩」となり果てないところにこの表現のどこか不思議な魔力のようなものを感じる。
菖蒲町に「鷺山公園」がある。道路の両側を領分としている。片方はミモザが一本ある平地から、ラベンダーが一面に植えこまれた坂を築山へと登るようになっている。道路の反対側の分には芝地と池が配され、最後はやはり築山へと登る。こちらは木立の茂る小山といった雰囲気である。道路の上に両側の築山を結ぶ陸橋がかかっている。木立のある側には、メインの登路とは別に、もう一本細い踏み分け跡程度の小道がついている。池のヘリから直接築山頂上 へと登ってゆく道である 。例年よりは少なめの蝉たちが、無心に鳴いている。
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空き缶の川原にひかり瑠璃蜥蜴 括弧
蜥蜴は昔
想像していた以上にタフな動物だ。我が家を取り囲む環境が変わって、数十年も棲みついた蟇蛙がいなくなって十年以上は経つ。青大将が最後に見られたのは、二十年も前に置きっぱなしにしておいた大鉢の下で冬眠中のそれだった。木を伐ってしまったので蝉も出没しなくなった。オナガのような大型の鳥も同様である。アマガエルは健在だ。どこで繁殖しているのか不思議だという疑問については既に述べた。
こういった環境の激変にもかかわらず、相変らずの数で出没するのが蜥蜴なのである。玄関を出れば敷石からチョロと顔を出す。郵便受けまで歩く間に2~3匹がオロオロと逃げ出す。中には藍色っぽい光を放っているやつがいる。昔は不気味に感じたものだが、今ではなんら異常な存在だとは思わない。少しきれいだと思われるだけだ。マンガなどで見る魑魅魍魎の世界には必ず蜥蜴みたいなものの姿が紛れ込んでいる。『不思議の国のアリス』にも蜥蜴は登場する。
インドのヒマラヤ山中で見たやつは大きかった。悪夢に出てくるものの姿そのものだった。『イグアナの夜』という映画があって、その新聞広告にはイグアナが蜥蜴のことだとは書いてなかったが、子どもながら漠然と何か不可思議な世界を描いた映画だろうという気はした。後にテレビでその映画を見て、ただの蜥蜴のことだったと知った。インドで見たものと大差ない大きさで、モンスターと呼ぶほどでもなかった。映画では一種のペットだったのである。
出て遊ぶ蜥蜴に日陰なかりけり 高浜虚子
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雨上がり愛車に藪蚊潜みゐし 括弧
老人ばかりで生活しているから、草取りや樹木剪定が追いつかな
い。だから、敷地の隅に置いてあるわが愛車は四六時中藪蚊に取り囲まれているようなもので、ドアが開けられるのを虎視眈々と狙っている…のか、開けられたタイミングで思わず訳も分からずなのか・・・ともかく車内に蚊が入ってくる。出方を知らないのか、いったん入ってしまうと、しばらく居ついたままということが起こる。そういう状態のときに、うっかり運転席に座ろうものなら、たちまち手首あたりに一撃を食わされる。動き出してからだと、気をとられて運転がおろそかになり、危険でさえある。運転しているということは、たとえ憎っくき藪蚊が襲ってきたときでも、こちらは手足の自由を奪われている状態ということだから、我が身は敵のなすがままなのである。実に口惜しい事態なのである。
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止みてより雨のにほひや百日紅 括弧
梅雨が明けたと言
い、明けていないのではと反論され、あいまいなまま8月に入ってしまった。93年には、7月中は雨ばかりで、その中を月末に米国へと発った。3週間ほど滞在して帰ると、ろくに日も差さず、晩夏そのものという寂しさだった。その年以来の冷夏になりそうな気配である。この気候が植物にどう影響しているのかはよく分からない。百日紅はどこか暑苦しさを覚える花であるが、多くはすでに枝先にひと塊が残るだけで、早くもそのシーズンを終えようとしているようだ。ムクゲは秋の季語であるにもかかわらず、割に早く咲くということは毎年承知していることだが、今年はフヨウまで2週間も前から目にするようになった。異常なのか、例年通りなのに私が気付いていなかったけなのか確かめようもない。
雨といつになっても縁が切れない。いつ豪雨が来るか、竜巻が襲うかという不安定さである。雨がやんだ後、日差しがあれば温度も湿度も上がって、土が臭うようになる。湿気の匂いと言ってもよい。藻が繁茂して濁っている用水堀のあたりに充満している「水のにほひ」が、所嫌わず立ち込めるという感じなのである 。
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草茂る道の名残りを踏み分くる 括弧
わが町にある自然観察公園には、きちんと決められた通路があって、
そこから逸れることは許されないから、この句のような場面は一見なさそうである。しかし実際はそうでもない。公園内の湿地を横切るには、設置されている木道を通らねばならないので、桜の時期あたりに気をつけていさえすれば、めったに自然を荒らされることはないだろう。だが、周辺部に昔からあるらしい梅畑のような場所へ続く草の道は、10年ほど前には歩くことが許されているのかどうかさえ分からないほどあいまいな踏み分け道にすぎなかったにもかかわらず、いつの間にか人が自由に通る道になってしまった。その上、年によって道のつき方が微妙に変わるようになった。真夏から秋にかけて、暑いので人が通らないでいる季節に、道が消えてしまうからであった。現在では二度と変わらないように、枯れた木の幹を並べて道筋を明らかにしているようだ。
渡良瀬遊水地の広大な蘆原には細い道がついているが、人通りは極端に少ないから、道の上にも草花が咲き乱れる。訪れる人が少なければ、やがて踏みわけ道に過ぎなくなり、それさえも消えてしまうことがある。一度そういう道をたどっていた時に、蘆の大群落にに迷い込んでしまって、抜き差しならぬ事態に陥ったこともあった。
写真は行田の埼玉古墳群の中の景色だが、公園内のこのあたりは草原で、時期によっては草が伸び放題になっている。人の歩いた跡らしいものは見えるのだが、この時期にはきわめて不分明なのである。決して歩くことが禁止されている場所ではないのだが、公園の構造上、誰も歩かない 場所になってしまっているのである。
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鉄柵に蔓の縋れる戻り梅雨 括弧
蔓といっても何の蔓であるかは述べられていない。蔓を出す植物の種類は多い。林内の道端はお
ろか、住宅の生垣や金属製の塀にすらヤマノイモの蔓が絡んでいることがある。ノブドウもある。オニドコロ、ヒルガオもある。付近の草取りなどをちゃんと行っている鉄柵にも、いつしか蔓が這いあがる。ようやく人の目を掠めて成長できたのだから、刈り取られてしまう前にもっともっとと、蔓は必死に、なんであれとりついたものを登ってゆくのである。もちろん意思があるわけではない。ただ、蔓や雑草が人目に触れにくい家の裏などで、あっという間に大きく育っているのに気づくと、彼らの生き残るためのシステムは、相当な無駄を覚悟した上で成り立っているということに一驚しないではいられない。ほとんどは刈り取られてしまうとしても、低い確率を生き 残った少数者が大成長を遂げるのである。
写真は5年前に行田の埼玉古墳公園で撮られたアオツヅラフジ。木本である。この場合、鉄柵ではなく金網でしたが・・・。
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道すがら蝉の鳴く木に寄りにけり 括弧
今年は蝉が少ない
ような気がしている。蝉しぐれの中を歩いても、一匹が鳴きやむと他にはほぼ鳴いていなかったことに気づいたりする。絶対数が少ないのではないだろうか。
小学校低学年の頃の通学路は何ルートかあったけれど、まだ太い道はなかったので、どれも何回も畑中の道を複雑に曲がってようやく目的地にたどり着くというようなコースであった。1年生の1学期は2部授業だったから、集団登校というものも始まっていなかった。午後番であれば、近所の同級生の女の子と行くとき以外、連れはいないのが普通だった。帰りなどは全くの一人で田舎道を歩いて帰っていたような記憶がある。特に連れ立って帰るようにという指導もなかったし、親が迎えに来るような悠長な家庭はなかったような気がする。
帰り道に、大きな屋敷に隣接する畑があって、その畑の三叉路に挟まれた狭い三角の部分に梅の古木が立っていた。独りで帰って来ると、そこでよく法師蝉が鳴いていた。法師蝉は動作が素早く、比較的高い所で鳴いているので、他の種類の蝉ほど素手ではつかまらない。何とかしてやろうという下心があって、通るたびに鳴いている法師蝉を狙った。他の種類の蝉でも、いればもちろん取ろうとしたので、その木には 通るたびに寄っていたことになるだろう。オシッコも大分かけられた。
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玉葱を竿に吊るせる下に窓 括弧
夏に入るや否や、農家の軒下などに玉葱が干してある光
景をよく見るようになる。人家にカメラをあからさまに向けることもならず。気になりながら写真にはなっていない。貯蔵する前に陰干しにしておくことが必須であるらしく、思いついてネットで「玉葱 干す」を検索してみると、俄か農園主の皆さんが熱情を込めてこのトピックを語っておられる。大量に出荷する農家では最先端の装置を持って対処しておられるのだろうが、農家で普通に、おそらくは自家用に、保存している場面はおおむねこの句のようなもので、玉葱を茎を20~30センチ残して切り落とし、残した茎を縛ることによって、何個かごとの束を作り、それらを振り分け荷物のように竿に掛けるという方法をとっているようだ。俄か農園主さんたちの間では、パンストを使って干すなどという方法が紹介されていて、それに対して、 男所帯でパンストを使うとおかしく思われるのではないかというような相談が載っていたりして、笑える。
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日盛りや旧街道の道しるべ 括弧
時間をつぶす必要がって、桶川市の「中山道宿場館」という名の観光協会の出
店(?)に立ち寄って案内図をもらい、それに従って1時間ほど散策した。昔中山道と呼んでいた覚えのある通りは今では県道となっているが、旧街道そのものであるかは正確にはわからない。ほぼそのような存在だと思い込んでいる。「道しるべ」では不十分で、どのようなものを想像されたか心もとないが、「桶川道路起点標」と案内図にあるもので、立派な石の標識である。いわゆる「道路元標」と呼ばれているものと同じだと思ったが、自信はない。梅雨明け後とはいえ、はっきりしない天気で、雲が覆っている間はすごし易いが 、ひとたび太陽が顔を出せば、一瞬にして焦熱地獄となる。そんな中での散策だった。
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花槐墓所までかこふ寺の塀 括弧
気がつくと槐
の花が公園内の小道に散り敷いている。これが毎年の倣いである。去年は北浦和公園だった。今年は行田の埼玉古墳公園の駐車場だった。散ってくるまで気づかないほどその花の存在感は薄い。地味な黄緑で、何かの葉のような色をしているのである。毎年意外なほど密に積もる花を見て句を詠むことになる。
近縁種にニセアカシア(ハリエンジュ)がある。これはアカシアと呼んでもよいもので、5月の野山に一斉に咲いてなかなか目立つ。エンジュとは対照的である。別にイヌエンジュと呼ばれる種があり、ある時みなかみ、藤原湖畔の樹林に混じって生えているのをみつけた。この方が花穂が大きくて、エンジュよりも目立つと思う。イヌ・・・と呼ぶからには、どこか劣ったものというコノテーションがあるのだろうが・・・。
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ほうたるとざわめく所どころかな 括弧
いつも農村
を歩くと書いているから、我が家は田園の真ん中に立っているとお思いの向きもおありだろうが事実は少し違う。今でこそわが家は住宅地の中に存在するのだが、昔は畑中の一軒家なのであった。荒川までは線路を越えて直線で西へ3キロほど先、そこまでは大宮台地といわれる畑作地帯が続いていた。東の方角へは、次第に高度は下って行くものの、2キロメートルほど行かなければ田圃は現れない。子供にとって2キロメートル、3キロメートル先 というのは、異国へ出かけるのと変わらないほどの距離である。水辺が遠いのだから、蛍を見る機会には恵まれなかった。私の活動範囲が広がって、どうやら田圃の方まで足を延ばすことができるようになった頃には、悪名高いパラチオン散布が始まっており、田から泥鰌が消え、田螺が消え、それらを餌とする白鷺等の鳥類が消えた。蛍のような繊細な生き物はそれらよりもさらに早く消え去っていたのだった。「複合汚染」時代を通って、田の動植物が復活してき初めた後にようやく蛍の復元も各自治体で開始されたようで、今ではわが町にも数ヵ所、人工の「名所」が存在する。「野外活動センター」というところで「蛍祭り」なるものをやると知って、夜 出かけてみた。県の景観指定地となった谷戸から湧く水が、まさに清流となって流れている。そこにホタルが出るというのである。
真の闇に近い川面は目に見ることもできない。流れに沿って三々五々移動する人々がようやく識別できる程度だ。目が慣れてくると、いるいる。あちこちから上ずったような感嘆の声が聞こえてくる。「恥ずかしながら初めてなんです」、「私もです」と年配の人々の話す声が聞こえる。無理もない。私ぐらいの年配のものには、そんな感じで人生を過ごしてしまったものが大勢いるのである。
(写真には蛍が写っているような気がするのですが・・・・、クリックして拡大して見てください)
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篠(すず)の子に蔓の絡んであまりけり 括弧
いわば笹の筍のことを「笹の子」と呼ぶのだが、「スズノコ」とも呼ぶ。元来
スズタケの子を指したものだったらしい。既に小枝が出て、竹ならば「若竹」の状態に達しているが、ほんの1週間ほど前には、すでに背が高くなってはいたけれど、まだまだ「子供」という感じが強かった。
私が歩いてる自然観察公園と八丁湖に付随する森林には、有力な笹藪が何箇所もある。こんな所には冬場鶯がたくさんいて、「笹鳴き」が日常的に聞こえてくるのである。
笹には限らないのだが、植物の茎や幹がさまざまな蔓に取りつかれる場合がよくあって、伸びのいい蔓の場合だと、それは数日でその植物をのぼりつめてしまい、その先っぽに垂れ下がっては次に絡むための対象を探している。住宅の垣根などに植えられた朝顔 を観察すれば、そのような蔓の「行動」がよくわかるものである。
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にいにいのこゑ裏がへる太鼓橋 括弧
「太鼓橋」にあまり必然性はない。蝉の鳴いている時間に空間的背景
を提供しているだけだ。公園とか水郷公園のような場所に、いわば付属している木立や森で蝉が鳴いている。実際は公園ではなく純粋な森の中で聞くことの方が私には普通だが、大きな池のある公園を歩いているとしたほうが気分がよいように思った。
「こゑ裏がへる」は抽象的な意味を付け加えようとしているものではない。。半分くらいの方は実感としての御記憶がおありだろうが、ニイニイゼミというもの、鳴き続けている途中で声の高さを変化させているとしか思えないのである。分からないといわれる方もいらっしゃるようなので、あえて説明することにしたわけだが、あの突如変化する鳴き方というものは聞き手の錯覚にすぎないのだろうか。こちらが歩行中であれば、複数の蝉の声が複合的に聞こえてくるわけだから、個別の蝉からの距離が微妙に変わることと関係あるだろうか。はたまたドップラー効果まで考慮してみたが、どうにも私がそれほどのスピードで歩いているとも考えにくいのであった。
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梅雨明けて陽の斑の中に笹の影 括弧
今年の梅雨明けは、だまし討ちみたいな発表の仕方だった。天気
は良くなるが、1週間ぐらい後に降雨がありそうなので、梅雨明けはそのあと・・・と「だまして」おいて、14日の午前中に突如発表というあざとさだった。外出中にわがカーラジオで宣言を知った。確かにその日は湿度も低めで、それまでの、床まで湿った感じだった屋内の様子からして違っていた。まさにピッタシのタイミングではあったようだ。
八丁湖畔を歩いていた時の木漏れ日を詠んだ。俳句としては真っ直ぐすぎて、いわゆる「つきすぎ」なのだが、素直な喜びがあったと思う。木漏れ日はピンホールカメラの原理で、真ん丸な太陽を映し出しているわけだが、地面に比較的近いところで、笹の葉に阻まれれば、その形を地面に映し出すのである。そんな当たり前の現象が妙に新鮮に感じられる日だった 。
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蛇の髭の花こもれ日のうちそとに 括弧
ジャノヒゲはリ
ュウノヒゲのこと。花は夏だがその実は「龍の玉」と呼んで冬の季語になる。畑の縁などに植わっているものは、育ちが良いのか大きな株となっていて、線形の葉が密集して垂れさがり、花が咲いても実がなってもその陰に入ってしまう。ろくに見ることができないのである。本来の自生地である林内ではさほどには茂っていないので、今頃歩けばその花が可憐に群れ咲いているところに出くわすことができる。折からの、こぼれては揺れる日の斑を受けて、ちらちらと光っているかのようだ。それほど派手な花ではない。子供のころは、そもそもこの植物に花が咲くことすら知らなかった。この植物への関心の対象は、冬につくブルーブラック色の果実なのであった。よく弾むので「はずみ玉」と呼んでいた。近くに大きな屋敷があり、老夫婦だけが住んでいた。その門の前がクヌギの木立になっていて、その蔭にはこの植物が自生していたので、その実を採るために、まざわざ出かけたりしたものだった 。
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自転車の灯し近づく五月(さつき)闇 括弧
旧暦では今年はまだ閏5月だということなので、今は五月(さつき)のうちであ
る。新暦7月になれば水無月だろうと思いこんではならないのである。「梅雨闇」、「五月闇」に傍題として「夏闇」という季語も見られるから、梅雨が明けても天候によってはこの季語は通用しそうだ。いずれにせよ湿気が多い時期だから、それに光がさえぎられて、夜は真の闇という感じが得られたものなのであろう。
自転車は、灯しをつけてくれさえすれば、このように駘蕩とした気分で接することもできるが、なかなかそうはゆかないようだ。昨今の自転車の凶暴性については、行政の無策と相まって、誠に筆舌に尽くしがたいものがある。臆病者の私は、歩行中に後ろから猛スピードで追い抜かれて、思わず「アッ」と声を発することもしばしばである。ことに最近の高校生などは、感情的にいえばほぼ100%が携帯メールに心を奪われつつの運転であるから、危険度はかつての数倍に達しているというのが実感である。歩行者に瀕死の重症を負わせる危険があるのみならず、自動車運転手にとってもこれ以上の 障害物は他にないのではないか。触れただけで転倒されてしまうからである。いつ携帯片手に突っ込んでこられるか分からない。そういう覚悟を持たなければ、車の運転もできなくなった。
分かりにくい写真になった。クリックしてみてください。
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焼き蕎麦の屋台に隣り金魚売り 括弧
先月末の、近くの
浅間神社祭礼の時の景色。何ということもないが、このような感じで夜店がひしめいていたことは想像してもらえると思う。東京の浅草寺のような、比較的広いスペースを持っている寺の場合でさえ、羽子板市のときなど、信じられないほどの数の出店が犇めいているさまに驚く。件の浅間神社などは散歩の途中で見慣れている場所なのだが、境内は決して広いと言えないもので、こんな場所にあれほどの数の店が出て、あれほどの数の人々が集まれるということ自体、普段は想像もできない。
金魚すくいなども出ていたが、気のせいか、人が大勢いる割には昔ほど流行っていないように見えた。シシカバブーを売る中東人らしき人の屋台まであって、彼の地を旅行した時のことを思い出したりしたが、この店も客の入りが良いようには見えなかった。他の店も似たりよったりと見えたが、時間的な関係もあるから断定はできないにしても、祭というもの、かつてのように、子供がそこでの買い食いを無上の楽しみとするような 場にはなっていないのかもしれないと思わされた。
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反り橋の下に水音梅雨ぐもり 括弧
既に梅雨は明けてしまったらしいが、つい2~3日前までは、気温よりも
湿気が気になる「暑さ」だった。昼間でもあたりはどこか暗い空気に包まれていた。歩きながら見えてくる景色を片っ端から俳句のかたちにしてゆくと、いくつか比較的まとまっている形が得られる。そのような作の一つである。大小の公園等を歩いていれば、太鼓橋とは言わないまでも、反り橋と呼んで差支えなさそうなものは、木製のもの、石製のものなど取り混ぜてそこいら中にあるものだ。「水音」 の90%までは心地よいと感じられる音だと思っているが、魚が跳ねた時の瞬間的な音であれ、、流れが石にあたっている時に立てる一種の瀬音に類するものであれ、その点では変わりがない。
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凌霄(のうぜん)の咲く三叉路を右に折れ 括弧
「三叉路を右に折れ・・
・」という連用形は、次に別の動詞が省略されていると感じさせるであろう。省略されているのが何という動詞であるかは明らかでない。事実を統一的な意味も考えずに記録し続けるという作業を時々実験的にやってみる。そんな作業の途中で俳句らしき形ができたもののひとつである。少し前、どこもかしこも凌霄蔓ばかりという時期があった。凌霄の花は今でもわずかに残っていて、相変わらず、咲いてはそのままのかたちで惜しげもなく落ち続ける。自宅に咲かせている人は、片付けても片付けても落ちてくる凌霄の花に辟易している向きもあるだろう。
ほかの多くの花でも同じなのだが、このような目立つ花が、咲くまでは全く存在感がない。時期になってみて、初めてその数の多さに驚かされるのである。最初の一花をみて、「もうそんな時期か」と季節の動きの速さに驚く。しかし馴れてみると、その花が門々に咲いてはこぼれてゆく姿は人生におけるタリマエの光景のように 思われ、そのような眺めの中にいること自体がほんの一時のことだとは思われなくなってくる。そんな凌霄蔓も、今年は既に終焉期を迎えようとしている。梅雨が明けたそうだが、これからが盛夏である。すでに蝉が鳴いている。秋の季語とされるトンボも飛び、ミソハギが咲く。アサガオは既に市が立ったほどだから、家庭の庭にも鉢が飾られているわけだ。
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煙草屋の角入る路地の梅雨の月 括弧
最近の昭和回顧ブームの中、映像などでお目にかかることもよくある、あの煙草屋の看板(瀬戸物らしい)の実物はめったに見られなくなった。我が家か
ら200メートルほどの八百屋さんは、スーパーなどが定着するまで、万屋さん的な存在で、酒は免許制だったから扱わなかったものの、調味料から魚の干物まで、いわば何でも売っていたものだ。タバコの販売権は持っていて、今でも自販機は健在であるが、店の方は大分縮小したようだ。ここは今でもあの懐かしい煙草屋さんの看板が見られる数少ないお店の一つなのである。当時の看板娘ならぬ「看板奥さん」は今でも健在だが、お歳は大分召されたようだ。最近のタスポ騒ぎで、自販機の売り上げも減ったことだろうと思う。昔は私も相当なスモーカーだったから、ずいぶんお世話になったが、6年前に禁煙に成功し、その後は口を拭って、もともとの嫌煙者だったかのような顔をしている。
そういうもろもろの事情は別にして、このような看板と当時のままの街並みが残っているということ自体は、 貴重な文化が身の回りに残っているということだから、気分が悪いはずがない。「気分がよい」などと第三者的な感想を述べていられる分には気楽だが、いわゆる「規制緩和」で潰された街並み、店、町内は、二度と元には戻らないのである。
*恥ずかしながら煙草屋さんの看板は「琺瑯看板」というものだとわかりました。瀬戸物ではなく、ガラス質のものを金属の表面に焼き付けたものだということです。(7月15日)
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線香の褪せし燃えさし日盛りに 括弧
「日盛り」という
季語には、梅雨でも明けないと実感が湧かないとは言いながら、既に梅雨前および梅雨の晴れ間にも、例外的にまさに「日盛り」にさらされることはある。昨日も薄ぐもりの空の下、荒川を越えて隣接する吉見町まで河川敷を歩いたのだが、途中木製の冠水橋を渡っていたら、突然目もくらみそうな日差しを浴びる羽目に陥ったばかりである。湿気も加わって、このようなひどい目にあうことが時々ある。
毎日方々を歩いていて、寺があれば寄る。墓所にも足を踏み入れる。大方はきれいに掃除してあるが、線香立てに残ったものや、地面に落ちたまま雨風に曝されたものもあって、「朽ちかけた」という印象を与える線香の破片はよく見られる。次に誰かが掃除するときには片付いてしまうのだろうが、地面に落ちている間 も、細くていかにも地味な存在だから、見ようと思わなければ見えないかもしれない。線香というもの、燃えて姿が消えてしまうのが通常の運命である。ふとしたはずみで燃え残る。思わず残骸となったわが身をしばらく浮世に曝すことになるのは、どう見ても幸せな運命とは言えまい。
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梅雨闇に灯し入れたるピアノ塾 括弧
「梅雨闇」は「梅雨時の曇った
夜の暗さ」ないしは「同じく昼の暗さ」のどちらの意味にでも使えるのだという。私は夜よりも昼の暗さの方に共感を覚えるが、照明が今のようにふんだんに得られなかった時代にあっては、自然のもたらす明暗に敏感であったろうから、夜の暗さの方が身にしみたことであろう。そんな気分を一瞬想像させてくれたピアノ教室の姿であった。闇が迫ってきた裏街の一角にあるピアノ教室・・・、ピアノ教室が繁華街にある方がむしろまれで あろう。教室内が窓越しに見えている。教師らしい人の頭上に白熱球の発するらしい明かりが入っている。うらさびしい夕暮れであった。
梅雨時の昼夜を問わぬ暗さというもの、夏至の前後に当たるというのに、かくも太陽から見放される数十日間というもの。この季節は人生観にまで影響を与えそうな、誠にうっとうしい季節なのである。楽しかったという思い出はあまりない。何しろこの強烈な湿気が人間の肌という器官に合わないのである。
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ゴム毬に臍といふもの草いきれ 括弧
「臍」という兼題があっての作である。
現代の、たとえばサッカーボールなどが、どのような構造になっているかは、浅学
にしてよく分からない。かつては、サッカーに限らず、ボールを使う部活のメンバーが、空気入れを使ってボールの内側に詰まっているチューブ(と呼ぶのだろうか?)へ空気を入れていたものだ。今でも基本的には同じようなものだとは思うが、プロの使うボールがどのようにハイテク化しているのかは分からないという意味である。
子供のころ、野球もどきのゲームも含めて、ボールを使う時には、ソフトテニスボールに似たゴムマリをよく使ったものだが、これらには「臍」と呼ばれる部分が必ず付いていた。パンクしてしまったものを引き裂いて調べてみると、「臍」は厚いゴムの塊が内壁に張り付けられた場所のことだと分かった。ゴム毬に空気を入れる時に、自転車のチューブについているバルブと同じ働きをする装置らしいのであった。この部分に注射針のような空気入れの先端を差し込むのであろうと想像した。針を引き抜けば、ゴムの弾性のおかげで針穴はふさがれてしまうのだ ろうと考えたのである。
戦後の住宅地のあちこちに見られた空地で、夢中になってゴム毬を投げたり蹴ったりしていた時の風景がよみがえってくる。空地の隅には必ず、芝生ならぬ雑草が生い茂っているのであった。
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茂り山鴉のこゑの止むときも 括弧
「茂る」
はいまどきの草や樹木の伸びきった様子を表す季語である。刈られる前の草原や手入れされないままの雑木林や並木の、若葉色とはほど遠い黒味を帯びた葉の色や、やっためたらに突出する徒長枝等を見ていると、「山も野も荒れ果てた」という気分に襲われる。この時期公園等の(自宅の庭でさえ)草を刈り、植え木の形を整えなければならなくなる所以である。八丁湖に続く丘陵の雑木林では、梅雨時の空と相まっていかにも暗く、歩いていると木々も草もすっかり荒れ果てたという感が深い。こういう環境の中で、鴉が幾通りもの声を放ちあっては、集団で全山を支配しているのではと思われるほどの勢いを見せている。私が森に入るや否や、たちまち物見係の鴉から警戒の声が発せられ、それが次々と引きつがれていって、あっというまに山の向こうに まで届いているのでは・・・といような幽かな恐怖心のようなものさえ覚えることがあるのだ。鴉語には数え切れないほどのメロディーと高低やリズムのみならず、語彙さえ相当に豊富に存在するのではないかというのが恐怖心を生む心理的要因だ。
一瞬すべての鴉が鎮まる瞬間がある。それはそれで、またも恐怖の瞬間だと言えなくもないのだが。
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宵宮のともし定まる刻となり 括弧
6月30・7月1日
は近所の浅間神社の祭礼である。子供のころは必ず出かけたものだし、新婚の頃連れあいと寄ったこともあったが、今や数十年間のご無沙汰となっていた。今年は、本当に久しぶりに、ちょっと行って見ようかということになり、まだ明るいうちに家を出た。夜間に夫婦で外出する習慣などとうに失くしているから、どうしても6時頃には出てしまうのである。帰るころになって、ようやく夜店の灯しや祭提灯が紅く見えるほどの暗さになった。昔ほどの人出はあるまいとタカをくくっていたのだが、どうしてどうして、大変なものである。若い人たちが溢れかえるほどたくさんいて、少子化などどこ吹く風と思いたくもなった。浴衣姿の中学生らしい一団がいて、いささか動き方がぎごちなかったものの、雰囲気は大いによろしいと思った
お祭というもの、たいがい夜に始まる。夜店が出て、大いに賑わうのである。子供たちにとってはこれがメインで、あくる日まで出かけてゆくということはめったになかったような記憶がある。この神社の祭礼では、山車も神輿も出ない。今月中旬に近くの天神社のお祭りがあって、その時は小さいながら、お神輿が出るようだ。
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昨夜(よべ)の雨葉にとどめたる竹煮草 括弧
タケニグサ、辞書では「竹煮草」とつづられている。俳句でもほぼ100%
近く、そのように表記しているようだ。手持ちの図鑑には「竹似草」とあり、茎が中空で竹に似ているからいう説明がついている。子供のころから見慣れているが、決して好きな植物ではなかった。茎を折ると黄色い液体が出る。きもちがわるかったし、それが有毒だということも知っていた。名前を覚えたのは、Sさんに黒部湖畔で教わった時だ。その後土合駅前で、数十本の群落を見た。どちらもかなりの高地だ。分布範囲は 意外に広いようだ。2メートルくらいにまで伸びるが、ケシ科に属している割には花は美しくない。俳句で扱われることが多いのは、名前と、その愚かしくも孤独な図体に共感するところがあるからかもしれない。全身白い細毛に覆われているので、葉には芋の露よろしく雨滴が溜まるのである。
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山頂に池あり風に水芭蕉 括弧
水芭蕉ほどあこがれの気持ちを掻き立てる花はほかになか
った。「尾瀬」といえば、神秘に満ちた自然愛好家のメッカともいうべき、秘密のベールに包まれたユートピアみたいなものだったのだ。そこに人が自由にゆき来し始めて、それが報道されるようになると、田舎で世間も知らずに育った私のような子供でも「尾瀬」という、何やら神がかり的な響きの地名を覚えるようになった。中田善直作詞による『夏の思い出』がNHKの「みんなの歌?」に選ばれると、日本人でミズバショウを知らぬ人はいないほどになった。山へ行けるようになると、私も尾瀬に出かけていった。尾瀬へ行ったとしても時期を合わせなければ水芭蕉は見ることができない。雪解けとほほ同時に咲くので、土が現われた順に咲きだすといった具合なのであった。だからここで水芭蕉を見たことは2度か3度にすぎないのであった。
そのような神秘の花だった水芭蕉が尾瀬以外の意外に色々の場所で咲いているということがだんだんわかって来る。どうかすると、真夏の高山域を歩いていて、途中に小流れでもあると、藪に隠れて、あこがれの水芭蕉が大きく育って花をつけていたりする。尾瀬ヶ原のものように大群落をなしているわけでもない。
谷川岳近くの苗場山頂は湿原になっていて、一面巨大な「池」であるとも言えるのだが、そのような山頂をイメージした句である。苗場山で水芭蕉が咲いている所に遭遇したわけではない。作句は、結果的にやや虚偽っぽいことになるが、ロープウエイで天神平へ行き、そこからリフトをの乗り継いで達した小ピークで行われた。神社があり、小池がいくつかある。ここにその大きさに驚く水芭蕉が咲いていたのであった。見ればだれでもが「あっ、水芭蕉!」と声を上げる。水芭蕉は やはり特別な花なのである。
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畑隅に初咲きの花南瓜かな 括弧
スーパーで半分に切ってラップにくるんで売っている南瓜は、どういう
畑で作っているのだろうか。わが散策路は、どこも南瓜の出荷地ではなさそうだ。南瓜がないわけではない。農家の近くの畑に、きちんと藁を敷いて何本かを這わせている、といった栽培も見られないことはない。だが、時々思い出したように存在する南瓜の多くは、1本か2本が畑の隅に生えてきたものを放置しているだけ、というようにも見られるのである。間引きぐらいはしたのかもしれないが・・・。出来た実は利用するけれど、手をかけて世話までする気はないといった感じの対応に思える。本当は違うのかもしれないが、結構な面積を占めながらもほんの1・2本が勝手に地を張っているだけのようにも思えて仕方がないのである。
考えてみれば南瓜は丈夫な植物である。戦後の食糧難時代には、どこの家でも庭先で南瓜の栽培をしていた。実際数本が自由に這いまわるだけの土地があれば、シーズン中一族が南瓜には困らないくらいの収穫があったので、庭が狭ければ縁先に棚を作って、へちまならぬ南瓜を這わせたものである。花が虫に食われていた跡などは思い出すことができるが、害虫駆除にことに骨が折れたような記憶もないし、道に落ちている馬糞を塵取りでとってきて根元においてやる程度で肥料は足りていたようだ。その当時のものは実が大きかった。今でも大きさを争う コンテストがあるくらいだから、元来そういう素質はあるのだろうが、現在スーパーで切り分けられて売られている南瓜は、想像するにせいぜい直径15センチくらいなものだ。
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刈られたる草の中には昼顔も 括弧
そろそろピーク
を超えたが、植え木の刈り込みと草刈りが盛んである。躑躅類などの場合、刈りこみの時期が遅れると、来年の花芽がつかなくなる。紫陽花はまだ花季だろうと思うが、これも遅く出た芽には花が咲かないそうだから、遅くとも土用には芽が吹いていなくてはならないのである。
雑草の方は花を咲かせるために刈るわけではない。年に何度か刈らないでおくと、たちまち強い種が人間の背丈ほどにも伸びてしまうからであって、それを防ぐためといった方が本当だろう。飼料に利用するということはわが里ではほぼなさそうである。(ガソリンにでもならないだろうか。)このような除草作業では、シルバー人材センターの方々が活躍されているようだ。
昼顔は強い植物だ。空地や駐車場などの垣根に絡んで見事に咲いているかと思えば、放置された畑にもたちまち出現する。道端の草の中でももちろん生き続けて、ちゃんと小ぶりの花をつける。立派な雑草の一員なのである。きれいな花ではあるが、庭にわざわざ植えようとする人はいないだろう。それでも隙を見てはあらゆるところに出現する。雑草の一員として草刈機でなぎ倒されても、痛くも痒くもないのか、根元を刈られて萎れてしまった花の隣には、刈りのこされた茎からの 次の花が、既に開きかけているのであった。
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絵日傘やあぶくの浮かぶにはたづみ 括弧
絵日傘を
持ち歩く女性は増えているのだろうか、減っているのだろうか。私の様な、田舎を歩き回る生活を主としているものの眼から見れば、屋外をウオーキングしている男女は、この10年間だけででも、非常に増えた。社交上の外出ではないから、そういう人たちの服装はカジュアルである。必ず日よけのための帽子をかぶっている。そういう時に傘を持っていては歩きにくいから、持っていない・・・・というのが、今時の熟年女性の歩くスタイルなのではないだろうか。街を歩いている女性の場合でも、日傘を持つ人の率は最近とみに減ったように思われる。光の画家であったモネは『パラソルをさす女』などいくつか日傘の光学的効果を利用した絵を描いている。日傘は、女性にとって明らかにファッションの一部であるはずで、紫外線除けだけがその効能なのではないと思う。近年、絵日傘と並んで白日傘がよく用いられてきたが、ごく最近になって、黒日傘が数で圧倒しだした。光を反射してくれる白よりは、紫外線をも含めて光を吸収してくれる黒の方が有効だという考え方になったようだ。
このような時代背景があるから、絵日傘を差している女性が現れれば、「オッ」と思うわけだ。場所は数十年前に突如工業団地というものになったあたりで、農村と工場群の間を隔てている、お世辞にも手入れがよいとは言えない細い道の上である。左には畑と何軒かの農家、右には操業中の工場群。用水路は汚れているようだ。そういう匂いが漂っているからだ 。一時はもっとひどかったのでは ないかと想像できる。日本中どこででも見られる経緯をこの場所もたどってきたに違いないからだ。
Sさんが郭公を撮られた。ご自宅近くで、普通のデジカメを用いて撮られた由。先日の「時鳥」の記事と合わせてご覧ください。よく似た親戚同士です。
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サルビアの咲く庭門扉閉ざされて 括弧
サルビアというもの、
昔からどこにでもよくあったように思う。最近はブルーサルビアなどいうものがあって、「オヤ」と思いだしたのが何年前のことだったか。植物に興味を持ちだした頃だろう。その後チェリーセージに始まって、数々のハーブと称するサルビア属の植物に出会った。知れば知るほど 園芸品種の無尽蔵さにほとほと困惑した。あの大型のメキシカンブッシュセージまでがそうなのであった。困惑したのは種類を片っ端から覚えようと思っていたからだ。今ではそのような野心は全く失くしてしまったから、心穏やかなものである。
個人的な好みを言えば、サルビア属のうちでも、やはりまっすぐ立ちあがって真紅の花を一斉につける、あの元来の「サルビア」がよい。あの色をほかの植物に求めることはできないのではないだろうか。「真紅」とはいえ、全く厭味のない色なのである。そして底抜けに明るい色彩だと思うが、一般にはどのように受け取られているのだろうか。
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転びかけ気づく静かさ蛇苺 括弧
「静かさ」と、言ってしまってはおしまいよ!と受け止められか
ねない。そんな句である。実際、形容詞や副詞に類する語や抽象的な意味の名詞を使って、1句中に中身を効率的にたくさん盛り込もうとする試みは失敗することが多い。中学校の作文で教わったように、「美しい」という形容詞を使わないでその美しさをどのように表すかが勝負なのである。具体的なモノが喚起するイメージというものが、あらゆる形式の詩や、場合によれば散文においてさえも最も大切な要素なのだといわれる。そこをあえて「静かさ」と言って見ちゃったことになる。芭蕉の蛙の句の向こうを張ったわけではないが・・・。「この場合はいいでしょう」という気持ちがどこかにある。
自解はそこまで。「蛇苺」は、春には「蛇苺の花」として用い、夏には単に「蛇苺」としてその実がイメージされることになる。「蛇苺の花」だが、この花がとても美しい。それに比べれば、実の方は花よりも数が少なく、より地味な存在だが 、それだけに見つけた時には嬉しさが募る、「蛇」というネーミングに負けて、誰も「不気味なもの」という先入観を持たされているが、決して有毒ではない。味はほとんどないと覚えてきたが、「薄い甘酸っぱさがある」と主張する人もいるので、先日実際に口にしてみた。どちらとも言えるが、「味がない」という方が真実に近いと、強情にも自説を再確認した。ぜひ試してみていただきたい。
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忘れゆく人の名前や片かげり 括弧
まあ、変な句だ。自句解
説をしても、読者は騙されているような気になるに違いない。私ぐらいの年齢の人の多くには、なんとなく抱いている不安というか、コンプレックスというか、・・・物忘れが激しくなったのではいかという漠然たる認識がある。そういう気分が、ある日片陰を拾っては踏んでいく私の頭をよぎる。片陰をたどるという行為は、決して生き生きとした生産的活動ではないから、その間の思いはどことなく退廃的なもの にならざるを得ないのである。そんな悲哀とさえ呼べない、何ということもない不満、不遇感。そのようなことをその場で書きつけたまでのことで、そこには文学的高みへいたろうとする意地も意欲も見られない、・・・とい言われてしまえばそのまま返す言葉もない。
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富士見ゆる道のわかれめ時鳥 括弧
わが里では、梅雨入り前の初夏の候でもなければ、夏季に富士
山を見ることなどはまずあり得ない。だから、こういう場面に遭遇する確率は相当低いように思われる。この句は御殿場市での思い出を、現在に置き換えて詠んだもの。妻の実家は御殿場市にあるから、新婚のころは、季節にかかわらずでかけ、富士山の裾野に当たるあたりをよく歩いたものだ。基本的に涼しかった。御殿場に限らず、普通の 山登りでも、富士の見える山はずいぶん歩いたから、この句を見ながらふっと思い出す場面もある。古い写真を探し回ったが、なかなかこの句にぴったりという場面を撮影してはいないようなのであった。掲げたものは40年以上も前に御殿場で撮ったもの。
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寝入らんと聞きゐる夜の枝蛙 括弧
枝蛙・・・、アマガエ
ルのことだ。モリアオガエルなどのいわゆるアオガエル科のカエルはアマガエルとはだいぶ違う仲間とされるらしい。生態上も、アオガエルは樹上から産卵するが、アマガエル(枝蛙)はちゃんと水中に産卵するのだという。ここにおいて、私の子供時代に遡る疑問は、いまだに晴れていないのである。昔からわが家から1キロ未満内には、池や沼などはなかった。しいて言えばどぶ川というべき溝があったが、それを言うなら現代はそれさえ全くなくなり、上下水道も完成したから、道路の側溝に水が流れるのは大雨の後だけだ。アマガエルはどこで繁殖するのか。
鳴き声は、近年ますます猛烈だ。庭のうっそうたる雑草と樹木のどこかにとまって、雨が予想されるような湿気を感じるや否や、猛烈な声で鳴き出す。今では塀に囲まれているせいか、声がこもって家じゅうに響き渡る。時間にもお構いなしだ。正直うるさいと思う。
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チェーンソーの煙のにほひ梅雨に入る 括弧
家庭で使うチェーンソーであれば、ほぼ電動式であろう。昔ながらのガ
ソリンエンジン式のものは、今ではほぼプロ用に限られるのではないかと想像している。尤も、チェーンソーなど触ったこともない私が言うことだから、当てにはならない。
気づいた時には既にエンジンの音が聞こえ出していたので、目をやると、今や懐かしいとさえ思える真っ青な煙が立ち上っていた。煙はたなびきつつ静かにその形を変えてっていている。大木を伐っているのであった。このようなエンジンから立ち上る煙というものを久しく見ていない。物心ついたころにチェーンソーというものがどのくらい普及していたものか知らないが、学校からの帰り道で時々目にした古木の伐採風景は忘れられない。10人からの大人が集まって大きな鋸を交代で使っていた。斧のようなもので切り口を作ってから鋸の出番となる。何時間かかったものか、帰宅が遅くなるのを気にしつつ、いつまでも見ていたものだ。だから木を伐る場面と言ってもガソリンの匂いなどとは何の関係もなかったのである。
ガソリン式が、順次電動式ににとってかわられつつあるとすれば、チェーンソーのエンジンを始動させた時の、あの拳銃の発射直後に立ち上る硝煙にも似た、煙の色も匂いも再び 失われてしまうのだろうか。
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蓴(ぬなわ)採る舟に姉さん被りかな 括弧
羽生市にある水郷公園の池には、一面にヒシが覆っている
部分がある。また所々にアサザが咲いていたりするし、ほかにも思わぬものが生えている可能性がある。何年か前の今頃、女の人が舟を使って何かを採っているらしいところを目撃した。浅いところだったので、舟は単なる運搬用だったらしく、女の人自身は釣り師のように、下半身を覆い尽くす長靴をはいて移動していたようだ。ジュンサイであろうか。アサザの葉も食料になるというからそちらだったかもしれない。ヒシはまだ収穫時期とは思えないので候補から除外した。
蓴菜というものを料理屋で食した時から、そのぬめぬめした食感が好きになった。あまりスーパーなどでは見かけない食材だが、手軽に入手できればよいと思う。
この公園には本邦最大規模の淡水魚水族館がある。近くの天然記念物ムジナモ自生地も有名だが、私は、何十回も出かけているのに、まだその場所を確認していない。まことに不熱心な観察者なのである。件の舟が採集していたものが本当に蓴菜であったかどうかも、怠惰なことに最終的な確認は しなかった。
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薪小屋を犇(ひし)と十薬囲みけり 括弧
十薬はドクダミのこと。「毒と痛み(に効く)」がなまって「ドクダミ」となった
という説が図鑑にある。十薬の意味は明らかだろう。こちらは「ドクダミ」の聞こえの悪いイメージをぬぐい去ろうというのである。ドクダミは繁殖力が強いということは、庭の手入れをしたり学校で草取りを経験したりしているだれもが承知していることだ。花が実に美しいなどと、私は大いにドクダミの名誉挽回に努めてきたし、多くの俳人は同じような立場をとって、ドクダミ賛美の句を作る。だが、ひとたび手を抜けば、屋敷うちはまずは、何者よりも先にドクダミに占領されてしまうこと請け合いである。ササやススキもチャンスがあればたちまち荒れ地を覆い尽くすことができそうだが、とりあえず日当たりのよくない放置された場所があれば、ドクダミが強いと思う。人が半年も立ち入らない薪小屋がこういう環境にあれば、この句のような場面が現出されるのであるが、これは山中のはなしではない。私の日ごろ歩き回っている範囲の中に、樹木に囲まれた農家があり、このような場所ができているのである。うらやましいような環境ではないか。
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萍の版図のあをき夕日影 括弧
代田、植田を歩いてみれば、萍が日に日に勢力を伸ばし版図
を広げていく様子がビジュアルに表現されているとわかる。萍にも大小さまざまな種類があるが、それらが稲が大きくなったとき俄かにすべてなくなってしまうわけではない。ただ目に見えにくはなる。まだ植えて間もない田にそれが広がってゆく勢いは、定点観測しているわけではないから、正確にはつかめないが、おおむね次第に領土を広げてきた様子とその速度が推測できる。1枚ごとの田に広がり方の差ができていて、そこに、繁殖し始めから 、途中、ほぼ全面を征服したところまでが連続もののように表現されているからである。夕日の中で見たのでは、情感が邪魔だという意見もあろうけれど、この場合、赤い夕陽と青い萍の取り合わせがなんとなくよいようにも感じるのである。
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石塔と青羊朶ときに鳥のこゑ 括弧
「青蜜柑」や「青麦」
のような例外はあるが、「青・・・・」がつけば夏の季語というのが原則のようだ。考えてみれば冬でも青い羊歯はずいぶんあるが、ただの「羊朶」はウラジロのことで、新年の季語である。
昨年鎌倉の寺で吟行した時の句である。見たものそのままだが、吟行句というのはこんなものではないだろうか。妙に「かさばる」思考を盛り込んでみても、かえって鼻持ちならない句になってしまうものだ…と思う。鎌倉の寺院には、昔の空気がそのまま残っていると思うことが多い。手入れの良い庭園であっても やはり、自然の地形を生かした構造であることに変わりがない。何度でも行ってみたい場所ではある。
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築地塀めぐる農家や麦の秋 括弧
「麦の秋」または「麦秋」の季節も既に過ぎた。季語のうちでも、
毎年使ってみたいもののひとつである。あくまでも、麦そのものではなく、それが熟している季節を表すわけだが、それは麦そのものがなければ感じることが不可能な「季節」でもある。もっといえば熟れた麦の畑が目に見えていなければ話にならないものだと思う。
旧川里町あたりの私的散策コースには大きな農家が多く、純白な壁が美しい蔵があったり、中には築地塀をめぐらせたお屋敷まである。そういう家は、家自体が立派なものだから、それぞれの季節にそれぞれの雰囲気を醸し出すことができるが、たまたまこの家に隣接する畑では毎年麦を作っているらしい。この家の畑だろうと想像されるが、確かめたわけではない。この家の高級なイメージに、麦の秋が似合うということに気づいたうえでの作付けであろうか
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目の合ひし猫の逃げ出す梅雨晴れ間 括弧
なかなか梅雨入り宣言がなされなかったものの、例年と違って、宣言
がなされるや否やいかにも梅雨らしくなった。よほど満を持して発表のタイミングを狙ったのであろう。とはいえ梅雨入りの次の日は早くも梅雨晴れ間であった。「五月晴れ」というのは、新暦5月の快晴の日のことではなくて、まさにこの日のような梅雨の晴れ間を言うのだとのこと。現代人の多くは、このあたりを取り違えている可能性がある。
梅雨晴れ間には、気温がさほど高くなくて散策に都合のいいような日があるかと思えば、梅雨明け直前のように 、気温も湿度も最高値を示して、とても日当たりを歩くなどできないというようなこともある。先日は幸いなことに、典型的な梅雨前期の晴れ間であった。農家と新興住宅が相半ばするあたりの、いかにも田舎道という感じのところをを歩いていた時に出会ったのが件の猫であった。
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駅からの闇に一輪夏椿 括弧
こうなれば花シ
リーズっきゃない・・・というわけで、既に過去の花になりかけている「夏椿」。椿と違って落葉樹だが、もちろんツバキ科に属する。「やはり」と出自を実感するのは、落花を見た時だ。花の形のまま落ちて溜まっている。「沙羅(しゃら)の花」ともいうが、お釈迦様ゆかりの「沙羅の木」は別種である。こちらは新宿御苑にあったような・・・。歳時記の傍題には「姫沙羅(ひめしゃら)」も載っているが、正式な和名でいえばナツツバキとヒメシャラは別種である。尤も、俳句で誤用したからといって、目くじらを立てるような問題ではない。互いによく似ているのである。ナツツバキだと思えばナツツバキで差支えないと思う。
この句、全くの咲き始めのころである。駅からの行き帰り、マンションの前にある小公園を通る。砂場もあり、公園デビューを果たした子供連れのお母さん方でいつもにぎやかだ。半分は小学生の遊び場となっていて、サッカーに興じている子が多い。夜は人っ子ひとりいないが、たまに 高校生のアベックがベンチにいたりする。
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病院に雨降る未央柳かな 括弧
「ビヨウヤナギ」、オトギリソウ科の木本である。どことなく花がオトギリソ
ウに似ているが、血は争えないというところか。キンシバイと花が咲くまではよく似ている。葉自体はよく見れば小枝の垂れ具合などとともに大分違っているのだが、一見しただけの印象では区別がつかないほどだ。花が咲けば違いは歴然。ビヨウヤナギの方はその雄蕊が、村山元首相の眉のように長いのである。そばへ寄って見るとどこか老人を連想させるのはそのせいだろう。キンシバイの方は若者といった風情だが、ビヨウヤナギとの比較が、知らぬ間に観察者の脳内で行われるせいなのではなかろうか。咲く時期も同じようだから、どうしても互いの存在を意識しないではいられない。もちろん見ている人間の側としては、ということ。
雨中で咲いているのを見ると、雄蕊の髭の効果で 、わずかに惨めさを感じる。あくまで主観にすぎないのではあるが・・・。
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夕さりの社務所の裏手ユッカ咲く 括弧
リュウゼツラン科の外
来種である。アツバキミガヨランという、いささかやんごとなき和名を持つ。ネットで2・3調べてみたが、語源は一致しないようだ。学名をYucca Gloriosa Linn というらしい。一説には英名がOur Lord’s Candleなのでそうで、和名はこれらの語に引きづられたものだと想像できる。
原産地の熱帯では5メートルにもなるというが、我が国では受粉に欠かせない蛾が存在しないため結実しないという。今頃と晩秋の2度にわたって咲く。花は名にたがわず、冷たい感じがしてどこか高貴でもある。私はここ何年か、ある農家から農道にせり出して咲くものを見ているが、路上に溜まる落花もしっかりしていて、地に積んだところもなかなかの風情だ。葉先は針よりもかたく鋭い。子供が遊びまわっているような場所では危険だと、だれでも思うだろう。葉先をすべて丁寧に切り落としたものをよく見かけるのは、アクシデントを避けるためであろう。
一見しただけで異国のものだという印象が強い。子供のころ、花は知らないまま、近づくのに抵抗感を覚えていたものだが、なんとなく 身の危険を感じたためだったのだろうか。あるいは、単なる異物を避けたいという本能的な感情に過ぎなかったのだろうか。
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小社や植田に映る夕景色 括弧
庚申塚の多さについて書いたが、祠の類も実に多い。地
区によっては旧家という旧家、つまり全戸が屋敷内に祠を置いているといえるほどだ。屋敷内に限らず、畑の隅、田の端、森の入口、野辺とあらゆる場所にあの小さな急こう配の屋根を認めることができる。中には道端に(あるいは田のヘリにというべきか)つる草のからんで、哀れな状態のものも見られることがあったが、時を置いて行ってみると、いつの間にか草は刈られ、すがすがしい姿で再生している。見捨てられる神様はいないようのである。どういう信仰心がこういう小社に息づいているのだろうか。考えてみれば、我が家 のような、戦後の食うや食わずの中でスタートした、「非」農家の人間には理解できないところなのであろう。
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三猿の上に「庚」の字花石榴(ざくろ)
昨日触れた神明神社に近い農道にある庚申塔である。庚申塔
には三猿が描かれていることが多いが、浅学にして、猿が「干支の猿」だろうと推測出来るという以上の訳はよく知らない。庚申は「かのえさる」であり、日につけられた干支の組み合わせだが、「庚申講」が60日に一度と決まっていたというように、干支としての意味を保持する結果になっているとはいえ、この場合の「庚申」の中心的な意味は青面(しょうめん)金剛のことだという。青面金剛信仰はインド発祥ではなく、中国の道教などと結びついた存在だが、日本では独自の発展を遂げたものだそうで、非常にポピュラーな信仰だったらしい。実際わが里を歩いてみると、庚申塔や庚申塚の多さには驚く。この庚申塔からたった200メートルほど北に、同じ道に沿ってもう一つの庚申塔があることを確認している。よほどわが祖先たちの日常に入り込んでいた仏教の「神様(?) 」だったのであろう。
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舞殿の床に積みたる椎の花 括弧
菖蒲町にある、長い参
道の林(社叢)を持つ神明神社の舞殿である。森に囲まれているから、周囲の地面は夏落ち葉で埋まっている。舞殿には壁がないから、床には塵埃がつもり、クスノキやシイノキの花が溜まっていた。正月には、農事に関する吉凶の占いを兼ねた火防祭が行われるというから、この舞台で舞などが奉納されるのだと思うが、今は人の気配はなく、ただただ常緑樹の 葉が落ちる音が切れ切れに起こるだけだ。こういう場所に一人でいるというのも悪くはない。参道は550メートルもある。かなり大きな本殿と舞殿、それに社務所があるとはいえ、境内はかなり広いスペースである。リンドバーグ夫人ではないが、絶対的な「隔絶」に浸ることも、時にはよいことなのかもしれないと、ほんの数十分だけのことなのに大げさな感想を抱く。
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息詰めて柳絮の中に入りゆく 括弧
「柳絮」は春の季語だが、自然観察公園では最盛期がつい少し前だ
った。一昨年北京市内のいたるところで経験した猛烈な柳絮については、何度か書いた。わが国では見られない現象と思っていたが、もちろんそんなことはない。大都市を席巻するほどの絮を発生させるに足る数の柳やポプラを植えている都市がないというだけのことで、柳の木がたくさんありさえすれば、部分的には北京に負けない(?)柳絮が見られる筈である。実際道に雪のように積もっていることも珍しいわけではない。思わず息を詰めてしまったのも、空中に漂う絮のあまりの多さに、本能的に身の危険を感じたからであろう。絮が肺に入っては健康によくないのかどうかさえ実は分からない。心配しなくとも、途中で引っかかって、肺にまで侵入することはないのかも知れない。いずれにしても、 健康上の危険について警告する文章に出会ったことはないから、多分問題はないのであろう。
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自転車の澄まして通る銭葵 括弧
ゼニアオイはタチア
オイと並んで、農村の人家および道端に頻繁に見られる植物だ。観賞用に植えられたものに違いないが、野生化もしている。今頃はタチアオイよりもゼニアオイの方が目につくような気がする。和名の由来は、花のかたちが銭に似ているからということらしいが、似ているいないは見る人の主観にもよるであろう。図鑑を見ていたらゼニバアオイというのもあるらしい。こちらは、花は小さくあまり美しくない。花ではなくて葉のかたちが銭に見立てられているらしい。タチアオイに比べるとゼニアオイは、集団を組まず単独で存在しているという印象が強い。花弁の元の方が細くなっているので、花に切れ込みが入っているように見える 。色はくっきりしているので「強そうでしかもきれい」という感じがする。
一昨年の冬、母親が怪我をして、しばらくは整形外科にほぼ毎日アッシー君をやった。その医院の駐車場に、ゼニアオイがただ一本だけ、大きくしっかり育っていて、たくさんの花を咲かせ続けてた。ほぼ毎日見ていたのだが、霜が降りた日でも枯れこむことがなく、「一体いつまで?」と思っているうちに年を越した。寒に入って相当たってから、ある非常に強い霜の降りた朝、さすがに打撃を受けて枯れが生じた。間もなく完全に枯れてしまったが、私の中には、この植物の耐寒性に対する驚きが残った。
この句は農村の畑中の道を歩いていた時に通り過ぎて行った女子高生を詠んだもの。近くに人家はなく、新しい老人ホームだけが人の気配を感じさせる建物であった。帰りが遅れると怖い思いをするのではないかなと思った。
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若竹にときをり巡りくる日の斑 括弧
筍が皮を脱げば「若竹」である。「竹皮を脱ぐ」という季語もあるが、実際に皮
が音を立てて剥落するところに出くわしたこともある。風が比較的強い日だった。かなりの音がしたが、落ちる音というよりは剥ける音だったという風に記憶している。
自然観察公園の竹やぶは、間伐も、筍ほりもあまりしないようだから、なかなか込んでいる。竹やぶは私有地になっているので入ることはできないが、すぐ脇の小道を通ることができる。濃い藪なので、昼なお暗い。うっそうとしているから、木漏れ日は数が少ない代わりに、その分印象的だとも言える。 写真を見て「まだ筍じゃないか」と言われそうだが、まあ大差はあるまい。このような姿から「一人前の」若竹までの生長は時間の問題である。最初は葉も付いていない小枝を張り出して、ひょろひょろしている。人のかたちになぞらえれば、形も定まらない表六玉である。この滑稽な姿もすぐに収まって、大人の竹へと一気に生長してゆくわけだ。
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白つつじ磐梯山を遠く見て 括弧
中学校時代の友人たちと会津に出かけたことには既に何度か触れ
た。都合で帰途は会津若松から独り旅になったことも述べた。会津若松駅で予定外の時間ができたので、周辺を歩き回った。近くの公園に朴の花がたくさん咲いていたのが珍しく、近寄って見ると突然磐梯山が見えた。皆と別れる前のバスの中でも見えてはいたが、これほどの印象は受けていなかった。この山については、この後の列車での一人旅でその姿を満喫することになる。
公園には躑躅が咲き乱れていたが、この点ではわが里よりも春は大分スローに経過しているようであった。朴の花の時期には大差がないと思えたので、季節の推移が幾日遅れているというようには言い切れないものなのだと思う。
「磐梯山」という言葉の歯切れの良さにひかれる。高校時代に読んだ高村光太郎の詩に、
二つに裂けて傾く磐梯山の裏山は
険しく八月の頭上の空に目をみはり
裾野とほく靡いて波うち・・・・
で始まるものがあった。この詩が長く記憶に残っているのも、「磐梯山」という言葉の放つ音声的魔力によるものなのかも知れないと思ったりするのである 。
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山なみや植田の底に足の跡 括弧
珍しい光景ではない。植えたばかりの田にはよく足跡が残
っている。もちろん手植えした訳ではない。手押しの機械で植えたのである。狭い田であれば、その方が大型の機械を使うより能率的だということもあるだろう。わが里での話だが、夕刻に田道を歩いていると、植え終わった後の田に入って、倒れた苗を直したり、欠損した部分を、田水につけたまま残しておいた予備の苗で補ったりしている人を見かけることがある。夕陽の中で広い田にたった一人の人が動いているわけだから、景色にまぎれてしばらく気づかない。勤めを終えて帰ってきて、そのまま田に出たのではないかなどと想像をめぐらすことがあった。
この句は安曇野の石仏を見に行った時の光景である。近くの低い山ばかりでなく、常念岳を中心とする、雪形の出ている山々を望むことができた。植えたばかりの田だったから、手押しの田植え機を使ったのだろうなどと話し合った。
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夏の陽に沼もろともに曝さるる 括弧
今にも梅雨に入りそうな気配で、天気のはっきりしない毎日だが、1
・2週間前には、いよいよ夏だと思わせる日差しがあった。空気が湿っていない分、真夏よりも明るいし、紫外線も強かったことであろう。乾燥していればよいというものでもないだろうが、日本の夏の持っている人に苦痛を与える諸要素のうちでも、湿気が他を圧倒して主犯格だから、逆にいえば、気温が相当に上がっても湿気の弱い梅雨入り前であればたいがいはしのぎやすいのである。自然観察公園内の最大の沼にかかる八ツ橋で佇んでいた時の実感を即吟したものだが、写真は撮らなかった。別の小さな沼の写真を添えたが、この写真の方は雰囲気が涼しそうなので、実感が再現できていないと言えるかもしれない。居心地の良さでは、このころが1年を通してのベスト シーズンであろう。
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木下闇よりヌーボーと大男 括弧
自然観察公園のう
っそうとしたあたりの道は、この時期には実に暗くなる。「木下闇」という季語を覚えた時から、まずはこの場所を思い描いたものである。今でもそれに変わりはない。このテの句はほぼすべてこの場所で作るのである。「こしたやみ」と読んでいるが、歳時記には「コノシタヤミ」という読み方が標題になっている。また傍題として「下闇」、「青葉闇」、「木暮」などを挙げているが、私はもっぱら「コシタヤミ」である。冬でも暗い場所はあるが、今が一番暗さを意識する時期であることは事実で、季語として、事実の上からも今の時期にふさわしいのである。梅雨が深くなればますますこの感じは強まるが、、そうなると、「昼なお暗い」と表現されるジャングルの暗さに通じると勝手に思い込んでいる。休日にはこの場所にも蒸暑さをいとわず、結構ウオーカーが訪れるが、平日には、近年増えた「御隠居さん」夫婦に出会う程度で、なかなか静かな場所だ。私がここを散歩の場所の一つとしてから10年近くたつが、当時は、野鳥ウオッチングのシーズンオフにこれほど人に出会うことはすくなった。この句のような場面もめったには起こらなかったが、それでも大男が突如湧き出す様に暗闇から 現れると、心底びっくりしたものである。
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